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【読書】『私の好きな孤独』長田弘
バカンスのような孤独
「言葉の魔術師」と呼ばれた詩人・長田弘による、極上のエッセイ。
とてもとても、素敵だった。
どう素敵かというと、たとえばこんなふう。
心の余白に、思いだすままに、いくつかの言葉を書く。ふっとその言葉を書いてみたくなって書く言葉。「樹」という言葉は、わたしにはそんな一つの言葉だ。
ただ「樹」と書く。それだけだ。そう書いて、その言葉を見ている。すると、目のなかでゆっくり「樹」という言葉が解け、字面が溶けてゆく。水のように滲み、それから根づいてくる。
言葉の毛細管の非常に細い一本一本が、しっかりと心のなかに張ってくる。それはやがて、静かにもりあがってくる。葉がひろがってくる。さわさわ、と葉がたがいに擦れあう音が聴こえる。沈黙のように聴こえる。目のなかに突然、いっせいに葉群らがひるがえって、光る。風を感じる。おおきな樹が生まれ、おおきな樹から、さらにおおきな影が生まれる。
「樹」という言葉は、ただの一語にすぎない。ただ一語にすぎないけれども、しかし、そのただ一語を書くだけで、明るい日差しの下の、おおきな樹の下の、おおきな影のなかに、わたしは入ることができる。たとえ、どんな深夜にも。
あるいはまた、こんなふう。
何もすることがないときは、言葉で旅をする。一冊の本と一杯のコーヒー。騒がしい街の店のかたすみに座って、一人ぶんの沈黙を探す。
本をひらいて、見知らぬ街の地図を探す。
本のなかには、街がある。まだ一度もいったことがないのに、親しく懐かしく思われる。そんな街がある。たとえば、アイルランド。ダブリンの夕暮れ。
なんて豊かな孤独、なんて豊かな自由!
長田さんの言葉は、なんの抵抗もなくわたしの心に入ってくる。
まるで、夏の夕暮れの涼しい南風のよう。
あるいはまた、冬の朝の温かいスープのよう。
この人とわたしは心が地続きだ、と、感じる。
地続きの心を通して、わたしは彼の目を得る。
彼の目を通して見る世界の、なんて豊かなこと!
まるで、地続きの心のひとと一緒に初めての土地を旅して回っているようだった。
ホームごと旅するような安心感と、どこにでも行ける高揚感。
どんなバカンスよりも贅沢な読書時間だった。
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