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体癖診断カフェ・リポートvol.21

長雨でしたね〜。雨音を耳にしつつ、目を閉じると落ち着いてきます。その時、自分自身が何を感じていて、それに対して色々な感情や思考が浮かんでは消え、過去にも未来にもこころが及ぶ様子を、ぼけぇ~と観察したりしていました。

今年は、生活環境や生活リズムに大きな変化を経験し、生活自体を見直すことが増えた方も多いかもしれませんね。ぼくもそのひとりです。

さて、梅雨明けですね!この夏は、自分自身の在り方を、これまでとは違った角度から見つめ直す機会と捉えることも、ひとつの選択肢です。

今回は、感情、直観、思考、それぞれ違う個性(優位な感受性)をお持ちの方々のご感想から着想を得て、個性をいかすってどういうことなのか、考察してみました。

いつもありがとうございます!

【7月11日 体癖診断カフェ@渋谷 参加者様 女性】
調子が良いタイミングということもあり、4人という人数もあり、とても自然体でお話できました。ご飯会では、私の嗜虐的な感情を起こさせる才能?を丁寧に教えて頂けて面白かったです。笑

自分の感情に細かい機微はありますが、一方で他人の表面的な情報をかなり拾ってしまうので(人の言葉や行動、パッと見の印象を間に受けやすい)上下1種傾向の濃い方が、わかりやすく言葉にして説明してくださったのが有り難く、今までの人生の答案用紙が返ってきたような気持ちでした。

今回のお話、お笑いにおけるボケとツッコミとかもマイルドですけど、似たような構図でしょうか。

私の高校からの親友の女の子はいつも愛のある辛辣なツッコミを入れてくれる方で、私はその瞬間にとても喜びを感じます。たまにツッコミ待ちのボケもしてしまいますが、理想のツッコミを入れてくれます。笑

【ボケとツッコミの関係性】

関西漫才のボケとツッコミの関係性って、傍から見るとちょっとコワいというか、声やアクションの過剰さが受け入れ難い(いじめ的な)いわゆる、縦(支配)の関係の構図にも見えるかもしれませんね。

互いの個性と役割を尊重できていないと、対等な関係性の成り立たず、その状態が維持されません。

そこに心地よさを感じる構図は、例えば、ダウンタウンの松本さん(※偶数傾向)のボケと浜田さん(※奇数傾向)の鋭いつっこみ、その絶妙な関係性に観てとれます。(※講座やカフェでは、詳細をお話しています)

ちなみにこの場合、つっこみが奇数系で、ボケ(受け)が偶数系です。どちらが欠けても、ひとりじゃ個性のよさもいかされず、表現されません

【奇数型と偶数型のリーダーシップ】

体癖論を学び始めると、自分自身の社会人経験の裏付けとして、おしなべて奇数系は自発的で積極的で目立つ、偶数系はその逆で目立たない、なんて不公平感を、もしかしたらお持ちになるかもしれません。

奇数傾向が濃いぼく自身、この体癖論的差異と社会的(一般的)認知の現実を、どない説明しようかなと悩んだことがあります。優劣じゃないんですよ。実は、ここの違いに気づくことが、人間理解を深める入り口だと思っています。

決して偶数系が自発的や積極的でない、なんてことはありません。ただ、個々の関係性によって、その場のリーダーシップや主導権の取り方、表現の仕方に違いが出てくる。

例えば、先手と後手の違いです。要は、どちらがここちよく自分自身を表現する起点となるか。(※このあたり、来月の品川講座で掘り下げます!)

先に挙げた例だと、ダウンタウンの松本さんのボケが、浜田さんのツッコミを誘発しているわけですね。個性のまったく違う者同士が組み合わさることで、互いの特性を際立たせている。適材適所というわけです。

きちんとボールを受けてくれる人がいるから、安心してボールを投げられる。その程度は、互いの息が合わないと深まりません。

【安心の基準が、そもそも違う】

例えば、人が苦手だったり、人前に立つと過分に緊張する、私人見知りなんです等、いわゆる、奥手や他者に後れをとっちゃうんですというひとが、すべて体癖論の偶数系かというと、そうは言い切れない。

結果的に、相手の個性を活かす思いやりが感じられると、より安心して自分に備わる能力を発揮もできるだろうし、しなくてもよい。そのような無理のない関係性を築ける人が、ひとりでも居るってことは、とても貴重ですね。

安心が担保されたと感覚することで、人はその人となりをより開花させます。と共に、ある種の危機感から発揮もある。

違うタイプ同士を比較しての優劣の判断は、自分自身にとっても他者にとっても、さほど意味がない。逆に、違うからこそ、自身の個性がいかされるという観点もおおいに認めたいところですね。それが自分自身に対する信頼や自信になる。

そんな個性同士がどう影響を与え合っているか、引き続き、講座やカフェでお話ししていきます。

【7月4日 体癖診断カフェ@渋谷 参加者様 女性】
感覚について話す事もそうですが『感覚で話す』事がこんなにもスムーズに出来るのかと、心地良く感じたのは久しぶりです。

前回の診断カフェでの事も色々と思い出すと上下種傾向の方に『感覚』を言葉で伝えようとしたり、また、上下種の方の感覚になろうとする事の難しさがありました。いつか上下種の方と『そう!それ!』と言う共感を味わってみたいです。

ランチ会の時の会話も本当に面白かったです。少し緊張しましたけど、話しながらの食事が苦手だったのでとても良い機会でした。

そんな閉型9種と一見正反対に見える開型10種傾向の方もお話をお聞きすると、意外とそこまで真逆なわけでは無いし、外からの印象と本人の内側の差にも興味がありました。

【猿人からヒトへ?】

ダーウィンの進化論でよく使われるイメージ図ありますね。左から右へ猿人がだんだんと直立歩行するヒトへ並ぶ図式。ここでは進化論の是非は置いといて、個人的には、直観優位の開閉型を猿人の位置に、思考優位の上下型をヒトの位置においてみて相関を考えると面白いなあと、思っています。

ぼくらヒトは、言語(=思考)を獲得し、読んだり(視覚)聞いたり(聴覚)触れたり(触覚)することで、互いの意思を、共通概念として伝達し共有することができますね。

上下型は、日々の生活でインプット(経験)もアウトプット(表現)も、思考する(脳を使う)ことで充足したい身体の要求があります。感受性で優位になるのが知性や理性です。一方、開閉型は感性や本能に、より優位性を持っている。

【猿人とヒトの劣等感】

とすると、開閉型が言語化に対する劣等意識を持つとしても、自然の成り行きだと思ったりもします。感性的に納得すればパッと掴んで、結果的に緻密に形にしたりと表現できるんだけど、その結果にいたる過程が、きちんと順序立っていて、いわゆる誰もが安心して共有できる論理性に長けているかというと、独自性(個性)が際立つ分、そうでもない。

理性に対して、感情が優位な左右型も似たように感じられるかもしれません。直観に至る明確な筋道の無い筋道の説明をする、が開閉型なら、言葉にし難い感情のひだをどう言葉で表現すればいいのだろう、という感じが左右型でしょうか。

例えば、ぼくの場合、言語と同等の記号としての楽譜が読めなかったり、英語の発音記号を読む、なんてことがとても苦手です。そのあたり、社会的には、少し申し訳なく感覚しつつ、事実、適当にやっています。単に、関心が薄いだけなのかもしれませんが、そのあたり、深く考えたことがない。 

教育現場や社会生活で、画一的なことを求められて期待されてきた分「う〜ん、うまく言葉にできないな」が、劣等意識や苦手意識にもなり得ると同時に「よくぞ、言葉にしてくれました」と、異能のヒトがとても有り難い存在になり得る。

しかし生活の実際、どうなんでしょうか。ここに来て、猿人がヒトに、ヒトが猿人に、申し訳なさげに劣等感を持つ図柄を想像すると、なんとなく、ちょっと笑えてきませんか。

体癖論的には、感受性の優位性の違いによって、一長一短があるだけです。10種類の異能のヒトが並列する図式です。

【感受性と性格】

『阿吽の呼吸』って、ふつうにあると思っています。ここではこう書き言葉にしていますが、正しく表現するなら思うなんて意識もしていません。逆にそうでないと、瞬間にまったくの異人として認識せざるを得なかったりします。

ぼくの場合、英語もまともに出来ない状態でアメリカ生活を始めた経験があります。まさに、言語を獲得する前段階で、相手の唇の動きを読んだりとか、目の表情とか、全体の雰囲気とか、コミュニケーションの四苦八苦?を楽しみました。

その『阿吽の呼吸』という言葉の概念も、感受性の違う個性の経験値によっては、言葉は同じでも、中身が随分と違ってくるはずです。

他者との距離感も、近くて心地よいこともあれば、遠くてそうあることもありますね。それらは、個人の感受性によるものか、経験からくる性格によるものか。大概、性格は感受性の延長線上に構築されていると思っています。

体癖論は、そのように明確に言語化でき難い、目に見えない感受性の違いを、誰もが知覚できる身体の違いを基準に、捉えようとするところがとても面白い。

【違いと同じ、ということ】

自分と同じだと、無意識に思って他者と接すると、結果的に期待が裏切られた、なんて経験は、見ているようで観ていない感受性の違いを同じにしてしまうという、ぼくら人間が獲得した能力が原因だったりします。

いつまでも変わらないあなたで居てね!は、気持ちは分からなくもないですが、自分勝手な呪詛です。笑

家族だから、親子だから、夫婦だから、恋人だから、同郷だから、男だから、女だから、日本人だから、人間だから、いろんな理由をつけて、思い込んでいませんか。 

私以外のすべてのヒトは、自分とは全く違う他者です。

違って当たり前。だからこそ、同じところを見つけ合って、共同体の中で安心を得ようとします。また違う者同士、互いを補い合い協力することができる。そんな交わりの中で、自分自身を発見し、他者を発見する。

そして、誰もが日々、意識せずとも自身を更新しています。だとするなら、自他を知った上で、どこへ意識を向けて生きるのか。そのあたりが、豊かな生活の要になりそうですね。

【7月11日 体癖診断カフェ@渋谷 参加者様 女性】
毎回「面白かった」という感想はもっているのですが、先日のカフェとそれに続く食事会でのお話は、「面白い」以上の満足感をいただきました。

その満足が何に由来するかというと、それはやっぱり脳をブン回して、納得のいく言語化をした、ということに尽きると思います。あと参加している人が「ここでなら言える!」みたいな感じでいるのも素敵なことで、カフェのありがたみを感じました。

【個性は気づくもの】

個性って放っておいても誰だってあります。探す必要はなくて気づくものです。気づきたいんだけど、なかなか一人では気づけない。それが癖(自分にとってふつう)だからです。

ぼくの講座やカフェの交流の場で楽しみつつ、ご自身の心身の快適なバランスを確認されるとよいと思います。そうしてまた、実生活で各個性をいきいきと活用されればよい。今後も、そんな場でありたいと思います。

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