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体癖診断カフェ・リポートvol.20

6月は久々に(4か月半ぶり)に、毎月開催している品川教室での講座を再開しました。やはりライヴはいいですね!

今回は『体癖と環境』というテーマで、コロナ騒動もあって変化せざるを得なかった社会生活のリズムや環境を見直しつつ、自分自身にとって『モノ・ひと・自然』との快適な距離感ってどうか、その3点と私の間の快適なバランスってどうなのか、参加者の皆様と一緒に考察しました。

以下、受講者様のご感想を一部ご紹介しつつ、思いつくままに綴りました。必ずしも対話になっていないかもしれませんが、対話は引き続き講座やカフェで。^_^

それでは、体癖傾向も合わせ、なにやらお楽しみいただけたらコレ幸いです。いつもありがとうございます。

モノとの距離感

【6月・体癖講座@品川『体癖と環境』 受講者様 女性】
アクセサリーのお話、人によってわかりやすく違いが出ていて面白かったです。

私は物に対して、お守り的な意識を持ったことはない(たぶん)のですが、これは何をアウトソースしているかの違いなのかな、と思いました。

今現在の私には、身に着けるもの(服、化粧、アクセサリー)は、素の自分で足りないから物の力を借りてる、という感覚で、アクセサリーは調味料みたいなものです。塩と砂糖と醤油とマヨネーズ、使用頻度に違いはあるけど優劣も好悪もないな、と。(正確に言うと、購入している時点で嫌いではないですが)

一方で、私にとって精神の安定とか緊張の回避というのは、アウトソースする必要がないので、お守り的な意識を持ってこなかったのかな、と。忘れ物も多いので、物に頼ると余計不安定になる可能性が加味されているのかもしれません。笑

すべてのモノは意味を持つ

私たちが身近に置いているもの、置きたくないもの。落ち着くもの、刺激的なもの。引き継がれたもの、目新しいもの。私たちの日常は、様々なモノに囲まれています。またそれらを、生活のTPOに応じて、使い分けています。

使い分けているということは、モノには意味がある。

意味付けしているのは、私たちです。モノは、意図をもって人に作られました。そうして人が違えば、同じモノであっても思い入れやこだわり、そのモノの価値自体が違ってくる。

(そういえば、自分にとって意味のないもの、身の回りにどれくらい見つけられるでしょうか。モノではないものです)

例えば、人にプレゼントする場合、喜んでもらえるだろうと相手の反応を期待していると、ちょっとがっかりしたり、自身の思い込み(癖)とは違う相手の反応に、困惑してしまった経験があるかもしれません。

事前に確認できれば、そんなことも少ないのかも知れませんが、サプライズプレゼント!なんてことになると、そうもいきませんよね?

結果、相手に歓喜されるかと思いきや、本当に勘弁してください!と、同じサプライズでも、びっくりする反応が相手から返ってくることがあったりします。悪気はなくてもね。

そんな時は、人にはふたつの状態があるということを思い出してみてください。ひとつは、困って助けを欲している状態、ひとつは、自分の持てるものを他者へ与えようとしている状態。今の、私は、あなたは、どちらかしら?と。

どうしてそうなるのか?

その感受性の違いは、性格分類体癖で説明できます。

人との距離感

【6月・体癖講座@品川『体癖と環境』受講者様 女性】
お話の中で、対面を避けるっておっしゃってたのが印象的でした。

20代の頃はバランスが悪い時は小説読んで違う世界にいるとか、言語化された感情を見つけて腑に落ちる的なことやってた気がしていて、今も確立できてはいませんが、なんとなくいくつかの方法を持って逃しながら生きてる気がします。

30代になると、てっとりばやく世の中とスイッチが切れるので寝るのがより好きになったかもしれません。笑

問題だと、私が認識する。少なくとも、私は問題に直面していると感覚する。それは紛れもない私の現実。そのような場面は、誰にも訪れます。大雑把ですが、問題の原因がモノなら排除すればいい。要らないものは捨てちゃう。お終い。

逆さに見れば、私が問題だと認識しなければ、それは問題にはなり得えません。

さて、原因が人や自然の場合、なかなかそう手前勝手なわけにはいきません。こちらに意図はなくても、ご存知のとおり向こうからやって来ることがあるからです。

無かったことには、できそうにない。簡単には、割り切れないことが、起こってくる。モノはコントロールできても、ひとや自然は、コントロールできません。

そうそう。ものの整理が苦手。断捨離ができない。そんな自分を責めてしまう。もしかすると、もの・ひと・自然が、ごちゃごちゃになっているのかもしれません。

その上で、次のマトリクスで私にとっての事実を整理してみてはどうでしょうか。【そもそも在るもの無いもの、自分にとって要るもの要らないもの】その4つに分けてみる。

すべてに意味を見出さなくてもよい

逃げる。この距離感の取り方は、どうでしょうか。問題に首を突っ込んで、事態をより複雑化するよりは、可能なら逃げることが手っ取り早い解決法です。

特に対人関係の場合、自分が逃げることを許すことも大事ですが、逃げようとする相手を見逃すことも大切です。自分自身と対面する時も、同様に。

本当に、白黒はっきり解決しなければならない問題って、そうそう無いのかもしれません。人って案外のらりくらりと問題の先送りをしているものです。これも逃げると同様、身を守る能力です。

決めるべき時は、自身が決める。いずれにせよ、行動の結末は、自身が必ず経験することになります。^_^

私と3つの点とのバランス

【6月・体癖講座@品川『体癖と環境』受講者様 女性】
一昨日はありがとうございました。3点のバランスをとりながら距離感を掴んでいきたいと思います。

茶話会もみなさん良い方ばかりでホッとしました。10種傾向の濃い方に囲まれて、砂粒でいることの心地よさを堪能しました。もしくは、二つの銀河系の恒星の周りを漂う衛星。。

2種傾向の方の論理性、1種傾向の方の単語のチョイスセンス(女子会話の中に「物理」なんて余り聞かない。でもそれがいい)

コロナ禍マスク着用で気がついたこと二つあります。

1、私の会社の人でマスクのゴム紐を両方ともクロスして耳にかけている人がいます。恰幅がいい方で、ねじれを感じずにはいられませんでした。
2、マスクかけても鼻を外に出す人。体格的に上下1種が多いのでは?と思いました。顔も上下に伸びるから鼻口を覆い隠すマスクは構造的に合わないのか?と思いました。

私以外を、環境として観てみる

もの、ひと、自然。私は、私自身を、知らず知らずのうちにどのように扱っているでしょうか。そんな私にとって、私以外の環境(もの・ひと・自然)は、どう在りますか。

これはあたりまえなんですが、人って自然なんですね。

10年ほど前かなあ。自分自身に価値を見出せなかった時期がありました。そんな時、東京都庁舎の前に立ち、くるっと360度回りながら、辺りを見回してみたことがあります。

目に入ってくるのは、人によって見事にデザインされ作り出されたモノだらけでした。異質な気配を有する生身のぼくにはどこにも居場所がないように感じられゾクっとしました。

あの頃のぼくは、自分自身をモノとして価値を図ろうとし、意味付けし続けていたのかもしれません。でも、出来なかった。あたりまえなんですが。(都庁舎にゃ罪はない)笑

自然って在るものなんです。そこにいちいち意味など無い。

自然を殊更に大切にしようとか、愛しましょうとか、省みなかった反動の結果としてはいいんだけど、そこに固執し意固地になると、たちまち嘘臭く薄気味悪く感じられてきます。(ごめんなさい)

自然に善し悪しはありません。明確に多様な違いが在るだけで。二度同じは無いだけで。変わらないものは無いだけで。人の身体もそうですね。じゃあ、こころはどうなんだ、と。

どう生きるのが、生きやすいのか。生身のままで、生身の呼吸に触れながら、日々感覚しながら考えていきたいです。

ではまた次回!


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