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体癖診断カフェ・リポートvol.23

【自然っていいもの?わるいもの?】

東京へ出てきて、13年が経ちます。(たぶん)

都会へ出てきた理由は、現職の勤務地がシブヤだったから。それだけです。個人的な目的が無かったので、とりあえず、こう決めてみました。

江戸っ子に逢いにゆく

そうでもしないと、なんとなく締まらない、というか、納得できなくて。そんなことありませんかね。今も、その目的に変わりはないんですよ。

気分はニッポン観光でもするガイジンさんです。(まあ、遠からず)

これまで所属することで安心したことがない。この安心というのは、一定の群れのカタチの一部として所属すると得られる、なんて幻想はもともと持ち合わせがないということです。感覚できないものはこわくて頼れませんよ。なので、所属へ帰るなんて概念もピンとこない。自然、そんな気はサラサラありません。

いつも仮住まいのような感覚があります。かといって心配性かというと、そうでもない。綺麗に言えば、時の流れるままに、その実、等身大の惰性のままに。その流れている感じが、ぼくには所属感、というより帰属感なのかもしれません。

ベースがそんな感じですから、その基盤に足つけて楽しく過ごそうというわけです。時に浮いたり沈んだり、それが自然のなりゆきで、あたりまえに身についています。ライフスタイルです。


すっかり忘れていましたが、最近またそんな『今ここにいる設定』を思い出しました。そんなことを、東京生活でこれまで、3度ほど繰り返しています。あたりまえの自然って、日常、いちいち意識されないんですね。意識されるということは、変化の節目、なのかもしれません。

さて、その『完全に私的な目的』なんですが、果たされたかどうかは、未だ不明瞭のまま、置いておきたいのです。(ぇ)閑話休題。

というわけで、13年。

食うためだけに、よくマスコミ業やってるよね。いやいや、いち社会人としては、カタチはどうあれあたりまえ、かもしれません。わかりません。

組織を構成する個人は変わっても、利権の絡む権力争いと付随して大小渦巻く思念の全体構造は、何も変わりません。見事に台本通りです。

ただ、つくづく慣れってコワいものだと実感しています。その流れを自発的に選んだかそうでないかに関わらず画一的にあたりまえになるからね。

都心の生活があたりまえになると、ちょっとした息抜きに郊外へ、緑のある自然を感じられる場所へ行きたくなる。自らの呼吸、そのリズムを取り戻したくなるのかもしれませんね。

今年は、森林や山を購入する人も増えたそうです。自然に還るって、いいですよね。癒される。これは確かに、実感されるでしょう

でも実際そこに定住するとしたら、どうでしょうか。草は生えるわ、蟲はわくわ、コンビニはないわ。思い通りにならない自然の一面に直面する。

都会生活に慣れてしまっている身にとっては、
触れ合いたくはない自然が、そこにはあって、
無関心では過ごせそうにない現実がでてくる。

でてくるって、そもそもそうあるんだけどね。いいもわるいも、判断などなくて、ただ在る。

自分にとって不都合な自然は排除したがる。言い換えると、支配です。都会って意識的にそう創られた共同体です。不都合な自然は存在を許されない。都会はいちいち意味のあるもので出来ているんです。だって、どこかの誰かがデザインしたものばかりなんだから。身の回りを見渡してくださいね。意味があるものに囲まれているでしょう。

例えば、東京都庁舎前なんて、とても綺麗にデザインされている空間ですね。10年程前、玄関先に立って空を見上げながら360度見渡したことがあります。生垣ひとつすら、構造物です。意図して設置されているんだから。誰かの脳内にまんまと迷い込んだように思い、ハッとしました。

困った?ことに何度行っても、道に迷ってしまう。地図は読むんですが、感覚できる質感としていまいちその空間自体を掴みづらいようです。

そんな世間にこの生身を晒していると、知らず知らずのうちに、私という存在自体にも、常に意味を持っていないといけない、それが、然もあたりまえになっているかもしれません。

同調?分断?それは、何を意味するのか。

ソーシャルディスタンスなんて言葉が、今年は人々の間、世間を走りました。自然に触れていたものが触れられなくなった。あるいは遮断という意味のあるとみなされるものを介して、接触がなされる。

今年は見えない自然や人間の動きを数値化したりと、なんとか視覚化してカタチにして、測らざるをえない1年になったのではないでしょうか。

そもそも、無理あるけどね。

日々の数字の羅列と、それに合うように創られた物語で、実証済みでしょう。そんなものでは、測り切れないものがあるってことは。そこを分かった上での毎日を、過ごしているでしょうか。

あえて問います。自然の何が変わったんでしょうね?言い直すなら、我々の自然に対する認識は、どう変わったんでしょうか。

そもそも、何を知っていたんでしょうか。そして今は、何を知っているのでしょう。

ぼくらの身体は、自然です。あたりまえのことですが。何を今更。そんなことは知っているはず。あたりまえすぎて、考えもしないでしょうか。

講座やカフェ、リモートでの試みは新鮮な体験でした。おかげさまでよいお話を共有し、個々の優位性を再確認することができました。でもね、結果的に非常に疲れる。なにより、繋がっている感じが感じられず、消化不良感が拭えない。その分、実感しようとして、気が回ってしまう。

環境要因も色々考えられますが、ライブでお伝えしたい、共有したいことは単なる情報ではなくて、感覚することが優位にあると実感しました。

触れ合う

触れるって、直接、触れているっていう感覚だけじゃないですね。世界に溢れる光や音や熱や匂い、隣の人の息吹や感情や想いや。なんやかや。

ビバガヤガヤ(意味なし)

そう、雑多なものです。それを雰囲気と呼ぶことができるかもしれません。

今年の初夏は、この都心ではあたりまえの満員電車の喧騒から解放されて、銀河鉄道の夜のカンパネルラになったかのように、からっぽの列車の車窓から鼻先へ、月明りと風を感じて、流れてゆく景色を目で追いながら、少しこころぼそくも感じられたりしてね。そして座席の揺れに鼓動が合わさってきて、風景に馴染んでいつのまにか寝入ってしまう。そんな経験をされたかもしれません。

いつもだったら、能面かしかめっ面かで、イガイガした気の充満する閉鎖空間の窮屈さに、息をするのも憚られる中、こころは時間に駆り立てられてまるで車内を走り回るかのように落ち着きもなく。お帰りは、一杯やって開き直って寝入るか、携帯画面の刺激に集中、無関心でやり過ごすか。

意味のある、意味を求められる、そんな世間では息が詰まる。意味のないあるがままの自然に触れて、ほっとひといき、息が抜ける。

距離は実数で測れますが、距離感は測れません。

わたしにとってのあたりまえ、世間あたりまえ、そして慣れ。常日ごろの人間関係、世間との関わり合いは、すべてそのあたりまえから起因し影響し合っています。

そうすると必然的に、それらのあたりまえということ、その違いという事実を、わたしはどう捉えているかが問題になってくる。

性格分類体癖のものの見方、そもそもの成り立ちから、整体という生き方を通じて、自然ということ、ぼくらにとっての身体ということを、どう捉え直し、どう向き合い、手入れしていきたいか。ぼくの関心は、今ここにあります。

というか、結局そこにしかないんですよ。なんだか色々と、心身ともに、その時々で、夢を見たり人を追ったり、ずっと移動してきたんだけれど。

それは、結局どこにいようが、わたしを知り、他者を知り、それぞれの快適さを毎日の生活の中で再発見していくことと同義なんですね。

めんどうくさいものなんですよ。自然は。
なにしろ、生きていますからね。ままならない。

我々は、ご大層な意味がなくとも、きちんと生きている。蠢いているんですよ。


ひとつだけカタチはどうあれ、これからも活動するうえで譲れないポイントがあります。それは、自身の生の感覚を誤魔化さないことね。わかったように安易な答えを出さないということね。そうしちゃったときの自身が感覚する落胆が、とてつもないんですよ。その感覚に決して慣れません。ここを偽ることは無理がある。そこを頑張ることはもうやめたい。東京生活以前より、とてもはっきりと実感し続けてきたことでね。うまく言葉にできないのだけれど。してきてないからね。だからこそ、きちんとカタチにしていきたい。^ ^

今年は、あなたにとって、どのように、それまでの独自の生活の視点や観点を変えられるチャンスだったでしょうか。(既に過去形)

今日は、どう生きたいですか。

来年はどうなるか、今からすごく楽しみで仕方がないのです。


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