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背中は語る~身体に沁む文化~

何もフェチなお話じゃございません。皆様も人を観る時、好き嫌いとか、注目するこだわりの部分っていうのあると思うんですがどうでしょうか。

この文章は、2020年秋、受講生様宛にお送りしたメール内容に、加筆修正したものです。写真は、数年前の春のもので御座います。

例えば、あの人の手が好き〜、髪をかき上げる時のとか、何々の場面の〜とか、状況も限定されてたりですね。

こころと身体

性格分類体癖論を学ぶにつれ、ぼくの中で、身体観というものが決定的に欠如してるなあという感覚が無視できなくなりました。そんな時、狂言師の野村萬斎さんが気になりまして。去年から今年にかけて(いうてもコロナで散々でしたが)注目したんです。

東京五輪の総合演出をご担当されてることもあり(来年、どないなるか知りませんが)身体にまとわれている緊張感がハンパなく。お顔の表情も目つきも、まるで狐憑きみたいで、すごい気迫を放っておられた。

創作舞台にもチャレンジされていて、無論、観に行きました。やはり五輪演出を意識されていて、創造される本番の舞台を拝見することがすんごく楽しみでね。(残念ながら、ぼくの行った回は、舞台演出装置の調子が悪く、途中で中断されてしまいましたが(涙))

その舞台に、黙して佇む萬斎さんの姿に、伝統芸能を継承しつつ、新たな試みをしていく責任を背負う身体ってどないなんかなあと、より感覚したくなりました。気がそう向いたので、

「お、東の京に居るんだし、すぐ会いに行けるじゃないの」と。「じゃあ、いくかね」てなノリで、能楽堂へも通いだしました。(安倍晴明風に by 夢枕獏)

ぼくは、どちらかというと能より狂言が好きなんですけど(馴染みやすいよね?)お能との出遭いは、京都で学生やっていた頃に遡るんですが、あぶり餅でも食べるかと、通りがかったお寺で、暑い夏の日に、薪能が催されていましてね。

夕暮れから夜の闇へ、笛の調べと薪の焔の幽玄な空気の最中を横切ろうとしたんですが(不遜な学生でした)その場に身がとけるような、平衡感覚がふわふわするような心地よさに、思わずトランスしてしまい。それ以来、能や狂言の世界観、空気感に惹かれていました。

萬斎さんご出演の映画なら『陰陽師』での立ち振る舞いは、もういわずもがな。『のぼうの城』は、時代背景にハマりつつ、特異なキャラの血肉が際立ってくるような作品。なんだけど、一方、ぼく的に『7つの会議』は、物語も面白く他の役者さんの顔ぶれもすごいんだけど、なんかちゃう感が。(ごめんなさい)

単純に、身からでる所作や発声が、一見、何もその背に背負ってなさそうな、どことなく影のある飄々とした現代風のチャラ男系切れ者のソレじゃあない。ただ者ではない感が、西洋のスーツ着てビル群背景の都会に似つかわしくないように、どうしても感じてしまう。

おなじく現代劇の『半沢直樹』TVシリーズには、歌舞伎の役者さんが、仰山ご出演されてました。(7つの会議もそうだけど)

ダイナミックな物語と痛快なセリフ回し、役者さんの顔芸含む、クドいくらいにドラマチックで大袈裟な演出が功を奏して、こちらは現代劇ニモカカワラズ、どハマりして大ヒットしましたね。(カマキリ先生、推し!)

話、元に戻します。

能・狂言と歌舞伎の身体観の違い、そんな大それたお話、現時点ではとてもできそうにないですが、ひとつそうなんじゃないかと思う点がある。

それは身体の裏で語るか表で語るかの違いです。

能って、極力ムダな動きをなくした端正な表現が基本だと思うんですが、背中が開いているか閉じているかで、喜怒哀楽を表現するんだそうです。
(萬斎さん・談)

背中で語る、表現される身体文化を、例えば表面的にその型を見知るだけでわかったつもりになるのは勿体ないというか、味わいが決定的に足りてないと思うんですよ。何か、この身体の、ひょっとしたら大部分が欠けてしまっているような、なんとなく、どことなくこそばゆいような、寂しい感覚があるんです。そこ、無視できないわけ。

人間の身体からうまれた、野口整体ゆかりの体癖論も然りじゃないかと思います。ぼくらの身体は、意識や知識の範疇(バカの壁)など軽々と越えて、この地に悠々と息づいてきた四季折々と花鳥風月に、属しているんだからね。

今後とも、内から観る身体観を探求しつつ、いのち・身体・精神、ということを、ぼくの身の丈なりにお伝えしていきたいです。

今現在(2021年7月20日)総合演出の舞台は、いつかの夏の夢幻となり残念ですが、萬斎さんが重圧から解放された感じをうけて、ぼくも一先ずホッといたしました。おつかれさまでした。


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