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映画【Girl】とトランスジェンダー、映画における一人称視点について.

ベルギー映画のGirlを観てきた。バレリーナを目指すトランスジェンダーの女性のストーリー。物語のモデルは実在のトランスジェンダーのプロダンサー。主演もまたプロのバレリーナであり、この映画が俳優デビュー作のヴィクトール氏。

主人公のララは生まれながらのトランスジェンダーで、心は女性だが体は男性なバレリーナ志望の16歳。彼女への理解はあると見える父親と、6歳の弟ミロとの三人暮らし。ララのバレリーナとしての第一歩と、成長期にともなう心と体の不一致をめぐる苦悩を描いたストーリーである。
界隈では賛否両論のある映画(例えばトランスジェンダーの女性の役をシスジェンダーの男性であるヴィクトール氏が演じたことや、トランスジェンダーの悩みを身体的な特徴のみに帰結させていること、ホルモン治療を否定的に描き自傷的方法をポジティブに描いていることなど)だが、ララの以下の発言がこの作品の伝えたいすべてだと僕は思う。これは何かLGBTQのメッセージ云々以前に、一人の女性の苦悩の物語だ。

私は模範になりたいわけじゃない。
ただ女の子になりたいだけなの。

そんな映画の面白いと思う所は、ストーリーの描き方である。ララの家族構成や境遇への説明的なシーンが一切なしにストーリーが展開してゆくことだ。例えばララたちが父子家庭であることや、バレエへ何故ここまで拘っているのかなど、一切が明かされないままストーリーは始まる。ララの生まれたときの名前がヴィクトルであったことも、弟ミロから呼ばれる一回から察するのみである(この名前が役者の名前と同じというのもメタ的でいい)。

こうした特徴を生む要因として"一人称視点"で映画が作られていることが挙げられる。小説とは違い、映画はその性質上、必ずカメラの視点があって主人公が客観的に映されることが殆どである。ト書きもない。この映画もそう、だから真に一人称視点ではない。
ここでいう"一人称視点"というのは、主人公ララの経験したこと以外、映画で描かれる期間・場所以外 を鑑賞者は知り得ないことにある。つまり映画のシーンの中には必ずララがいて、ララのいない場面は一度も映されない。この「わかることしかわからない」という仕掛けが観る人の没入感を高めることにも繋がっている面白いところだ。
映像作品における一人称視点がどうあり得るのかという点においてこの作品は考えうることがあるように思う。

さて、一方で作品の主題と言えるであろうトランスジェンダーの議論は難しい。そもそもトランスジェンダーではない人にトランスジェンダーの気持ちはわからない。その上、トランスジェンダーの人たちも全員が同じではない。ある人は心に拘り、ある人は体にこだわり、ある人は社会的なことに拘るかもしれない。
この映画では執拗に胸や男根などの身体的特徴に拘っており、それが一部のトランスジェンダーの人からの批判にさらされているが、モデルとなった女性は映画を擁護しているそうだ。
近年、LGBTQへの認知は増してきたと思うし、理解へ向けて未解決の側面も多いと思う。しかし新たな問題として、LGBTQの人たちをまとめて1つとして扱ってしまうことはまだ認知されきれていない課題と感じている。LGBTQの当事者でさえ、自分達の中の個性や違いを認めきれていないように見えるし、この作品への批判を見るとまさにそれが浮き彫りになっただろう。
この作品はそういった1つ上の次元におけるLGBTQに対する問題提起ができたかもしれない点で価値があるかもしれない。

クライマックスで、ララが鏡越しに自分を見ているシーンがある。彼女の輪郭はぼやけていて、より女性らしくも、それまでと別人のようにも見える。
エンディングの後、彼女の人生がどうなったのかは知るよしもないが、ララという一つの人生の転機、というそれ以上でもそれ以下でもないものを僕らは観たに過ぎないと思った。
彼女は、何かの模範ではない、ただの女の子なのであるから。

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