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8月6日、慰霊の日②|「再びの戦争よ、あるな!」切明千枝子さんの被爆証言を聞く

1945年8月6日 8時15分。
米軍は広島に原子爆弾を投下。
43秒後、上空 600mで爆発。
それは1000000℃超えの火球となり、
熱線を放射して約10秒間 輝き続けた。
爆心地は約3000°C〜4000℃。
発生した衝撃波の気圧は爆心地から500m地点で 11 t/m²。
秒速の爆風は中心部の空気をさらい、 のちに逆方向に吹き戻された。
爆心地から2.5km地点の物体にまで自然着火した炎は
午前10時頃から午後 2〜3時頃を頂点に、
終日、天を焦がす勢いで燃え続けた。

《第九条の会ヒロシマ》意見広告より。
出典は、広島原爆被災撮影者の会「被爆の遺言~被災カメラマン写真集」 、
広島市HP (原爆被災の概要)とのこと



これが、キノコ雲の上から俯瞰した原子爆弾の威力です。

そして、分厚い雲の下で起きていた出来事を語る、被爆者たちの反核の訴え。それが、《被爆証言》です。

被爆証言「再びの戦争よ あるな!」
証言者:切明千枝子きりあけちえこさん
─プロフィール─
1929年広島市に生まれる。第二県女4年生の15歳の時に、原子爆弾の被害に遭う。85歳から広島県被団協の‘‘被爆を語り継ぐ会"で被爆体験の証言を始め、93歳になった今日も広島平和文化センターの委嘱証言者として活動をつづける。
被爆証言集「ヒロシマを生き抜いて」「ヒロシマを生き抜いてPART2」がある。

テレビやラジオで被爆証言を聞くことはありますが、本格的な証言を聞いたのは、初めてと言ってもいいかもしれません。
避けていたところのある私ですが、被爆者の高齢化が進む昨今、同じ空気を吸い、語る声に耳を傾ける経験をしておかなければならないと思ったのです。

切明千枝子さん。

1929年のお生まれで、1〜2歳の頃に満州事変。小学2年生の頃に日中戦争開始。1945年の終戦時に15歳。「15年戦争」とも呼ばれる期間が、ちょうど生後〜15歳に重なるような世代でいらっしゃいます。
85歳で被爆証言を始められ、今年の秋に94歳になられます。その年齢とは思えない凜としたお姿、お声で語ってくださいました。


当時、女性は学問を身につけることはなく、現在で言うところの中学2年生までで教育終了。あとは花嫁修業をして17歳頃に結婚。姑と夫に仕える日々の中で、「男の子を産む」ことを求められた...そんな時代だったそうです。

なぜ男の子なのか。それは、兵隊になって戦争をするためです。特攻兵になるためです。敗戦の色が濃くなるにつれ、特攻のための飛行機が尽きて、ベニヤ板で作ったにわかごしらえのボートに乗り、火薬を持って軍艦に突っ込んでいかなければならなかった。かすり傷ひとつ負わせることができないと、わかっていながら。
切明千枝子さんのお母さまは、娘を4人産み育てたけれど、男の子は産まれなかったため、「非国民」と誹られたそうです。
それでも、戦争が終わってこう仰いました。「あなたが女の子でよかった。戦争に行って、死んだりしなくて済んだから」

広島がとてつもない軍都だったこと。まぎれもなく「加害の街」であったこと。軍人たちが腰に下げたサーベルをチャラチャラと鳴らしながら、鼻高々で歩いていたこと。
東京裁判の模様がラジオで毎日中継され、「東条英機、ハンギング」などと報じられる中、とあるきっかけで言葉を交わしたことのある元帥が死刑になるかどうかをハラハラしながら見守ったこと。


「私は、何人の下級生をこの手で焼いて荼毘に付したことでしょう。むごいことでございました。地獄でございました。」

78年前を見ている目が聴衆の上をさまよい、私たちを否応なく立たせるのです。焼け野原の只中に。ご遺体を井桁いげたに組んで焼き、燃えないので必死で探した油を塗った木くずや瓦礫の木片をくべて燃やした、その地点に。
血と火傷と火の匂いが広島じゅうに広がり、近隣の山や市街地から、真っ黒になるほどおびただしい数のハエが集まってきます。
そのあとは、『はだしのゲン』に描かれた光景が展開するのです。

「広島のデルタを流れる七つ(当時)の川は、流れが緩やかです。潮の満ち引きによって、上流に向けて上っていきます。川を埋め尽くしたご遺体は、潮の流れによって、上流へ、下流へと行ったり来たりしていました。」

「下級生のご遺体を焼いたとき、炎に捲かれた体が動くんです。脚がポーンと跳ね上がったり、腕が動くんです。『先生、生きてるんじゃないですか、動いています』と言うと、『もう死んでる。もう見るな!』と仰る。でも、金縛りにあったように動けないんです。とうとう最後まで見届けてしまいました。そうしたらね。今頃の焼き場のように高温じゃないから、骨格の標本みたいに、きれいに残るんです。そして、桜色の、きれいな色をした骨になりました。」

爆心地付近で防火帯を作るために学徒動員されていた女学生。全身に大やけどを負ったそのひとは、わずか中学1年生でした。絶え入りそうな声で言ったそうです。「死んでもいいから、水を下さい...」と。先生からの「絶対に飲ませたらダメだ」という指示により、ようやくかき集めてきた水を、飲ませてあげることはできません。
けれど、どのみち、息を引き取っていくしかないのです。せめて水をあげればよかったと、その痛恨の思いを抱いて生きてこられた78年間は、あまりにも、長く重いものでした。

「プレスコード、と呼ばれる規制によって、広島の惨状を知らせることは一切できませんでした。サンフランシスコ講和条約までの《暗黒の10年間》です。ですから、どこからも、何の援助もないのです。戦時中は配給がありましたから、まだよかった。終戦後は、本当に何もなかったから、草を喰って生きましたよ」

「娘を亡くした親御さんがね、私を射るような眼でご覧になるの。うちの娘は死んだのに、なぜあなたは生きているのか、と。...私には、そのように見えました」

「平和というものは、油断したら飛んでいきます。しっかり掴んで離さないようにしないと、すぐにどこかに行ってしまう。《平和を守る》と言いますね。そのためには、何をしたらよいかをしっかりと考え、見つけてください。そして、それを実行してください」



※タイトル画像は、平和公園内の「平和の鐘」です。


#広島 #原爆 #平和 #継承 #被爆証言
#切明千枝子

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