もったいなくて使えない、はもったいない
いいものを買ったほうが、結果的にコスパがいい。
そう思って買ってはみたものの、もったいなくて使えない。これって、私だけでしょうか。
今回は、皆さんも心当たりがあるであろうお気に入りを大切にするあまり使えないという現象について、お気に入りしか持たないミニマリストの視点からお話していきます。
心の摩擦
お気に入りのものだけに囲まれて暮らす。そんな生活に憧れていました。朝起きて最初に確認する時計。洗った顔を拭くタオル。朝の最初に飲む白湯を注ぐコップ。袖を通す衣服。そんな目に触れ、手に触れるもの全てが素敵な逸品。そんな暮らしです。
いいえ、ただ素敵だというだけではありません。ミニマリストの審美眼にかなった、厳選されたお気に入りに囲まれた暮らしです。想像しただけで幸せない気持ちになれます。まるで仄明るい早朝の空を眺めながら深呼吸するような、そんな満たされた気持ちに。
しかし、現実はそうはいかないもので…。実際は素敵なものを手にしても、もったいなくて使えないのです。お気に入りの靴は、擦り傷とつけるのが怖くて履いて出かけられないですし、新品のタオルはふわふわが消えるのがもったいなくて古いものばかり使ってしまいます。
ものに溢れた生活をしていた頃からそんな性格だったのですが、ミニマリストになった今でも、このもったいない精神は健在です。せっかく一目惚れして購入しても仕舞いっぱなし。お気に入りに囲まれて暮らすどころか、それを使うことが「もったいない」という一種のストレスになってしまう。最近の私の悩みです。
もったいない。これはきっと、「もの」が「現状」を上回っていると感じることで起こる、心の摩擦のようなものです。
その摩擦のエネルギーを変換し、いいものを買ったんだからと自分を奮い立たせ、「仕事を頑張って、いいものに見合うだけの現状にするぞ!」と己をコントロールする。そんな向上心は素敵です。努力が成果、収入に直結するようなお仕事では、「いい腕時計を買いなさい」なんてよく言われているそうです。わたしは畑違いなのでピンときませんが、営業職の方からうかがったことはあります。
しかし、ものと現状の差を感じるというのは、あくまで相対評価に過ぎません。つまり、自分自身の内側から発露しただけのものです。そんな摩擦のエネルギーを活力に変えることができず、私のように思い悩んでしまう…。そんな時は、少しだけ視点を変えてみるのもいいかもしれません。きっと、知らず知らずにこわばっていた肩をほぐすように、じんわりと楽になれるはずです。
黒い傘
わたしは典型的なもったいない人間で、せっかく買ったのに使わない、いえ使えないものがたくさんあります。お気に入りの服。買ったばかりの香水。素敵なお皿。切れ味のいい包丁。新品のタオル。歯ブラシなどの消耗品。挙げ始めるときりがない。
買ったということは、使いたくて欲しくなったはずです。なのになんで使えないのでしょう。
わたしの場合、着物や洋服、革靴などお気に入りのファッションアイテムは、特に心の摩擦が強いのです。もう紙やすりくらいに…。そして、もったいない精神を振りはらった先には、汚さないかと着ている間ずっと不安で、帰宅したらお手入れしなきゃと手間がかかる末路が……。そんなだから、お気に入りを使う頻度はどんどん減っていきます。
そんなだからか、私にはお気に入りを買った後、同じようなものを雨用にもうひとつ買う習性があります。お気に入りが濡れて傷んだりしないよう、雨の日にだけ使える代用品が欲しいのです。これが「もったいない症候群」の症状なのでしょう。ミニマリストなのですから、晴雨兼用でお気に入りのものをひとつだけ持った方がいいのですが…。
いえ、「ミニマリストだから」というこだわりこそ、手放すべき無駄な思考なのかもしれません。
わたしは、傘も二種類持っています。雨の日に使うしっかりしたものと、晴れの日に使う折り畳みの日傘です。
お気に入りの雨傘と、ユニクロのセール品だった日傘。わたしは当然のように、買ったばかりの雨傘は温存し、雨の日にユニクロの日傘を使っていました。おバカさんですねよね、ほんと。
同じような話を、たしか小学校一年生の国語の授業で読んだことがあります。うろ覚えをまとめると、こんな感じ。
ものは使うことに意味があるんだよ〜、なんて筆者からのメッセージが聞こえてきそうですが、私はこの紳士の気持ち、すごく分かります。「新品の傘がもったいない!」これにつきます。共感してくれる方も多いのではないでしょうか。
もったいないおばけの正体
買ったものは使ったほうがいいし、傘なんて雨の日に使う道具なのだから、雨が降ってきたならさっさと広げて身を守ればいいのです。
しかし、黒い傘の紳士と私は、雑念に邪魔されていました。
わたしのこれまでの「もったいないエピソード」を思い返してみても、靴が汚れたらよくない、新品のタオルを使ったら新品じゃなくなっちゃう、とまぁ雑念に心乱されています。
ものを大切にする。
八百万の神、特に付喪神の存在からも分かる通り、我々日本人は、ものを長く大切に使い続けることに一種の美意識を持っているように感じます。
「だったら私のもったいない思考も尊いものじゃないのか」、と思ってしまいそう。しかし、日本人の美意識と私のもったいない精神では、ちょっと毛色が違うような気もします。わたしの場合、ものを大切にするのとは少し違った、雑念が混じった別のなにかです。大切にしていたのは、「高価」や「新品」といった本質とは違う部分でした。雑念によるラッピングとでも言えばいいのでしょうか。
新しく買ったものに雑念のラッピングをして、その結果使いづらくて仕舞ったまま。それが私の陥っていた状況です。
しかし、ある時気が付きました。お気に入りでも擦り傷がつくのも気にせず使えている革靴もあるし、日々気にせず使っているタオルも以前は新品だったものだということに。なんで使えるようになったのかなぁと考えてみますと、長い間たいせつに保管しているうちにもったいないと思う気持ちが薄らいだことで、手に取ることができるようになったようです。
つまり、「使っているもの」と「使えないもの」の違いは、時間の経過といえそうですね。
買ってしばらく仕舞っておいて、雑念という名の包装紙が自然に剥がれ落ちる。そうやって、もったいないという思いが薄れるのを待ってから使う。
心の摩擦、もったいない症候群を解決するのに、この対処は有効に思えます。なにもせずとも、時間が経つのをただ待っていれば自然と解決するのですから。失恋でもなんでも、時間が解決してくれるといいますもんね。
とはいえ、ただ待つというのでは、あまりに時間がもったいないとも思ってしまいます。もう少し、能動的、積極的にお気に入りを使う方法はないものか…。「新品だから」「高価だったから」などの、本質とはかけ離れた要素に固執することでもったいないという雑念を、時間が経つのを待つことなく解消することはできないのでしょうか。
もったいないという呪いの解き方
ものを使いこなす
ものを大切にするあまり、いえもったいないという雑念が強いあまり、滅多に使うことができない素敵なもの達。そんなものをたくさん持っていた私の呪いが解けた瞬間は、あまり劇的ではありませんでした。
過保護なほど気を使って履いていた革靴は、カフェで机の脚にぶつけてつま先を削ってしまいました。お気に入り過ぎて出番の少なかった着物の帯は、公衆トイレで着付けを直していたところ床にぺたっとついてしまいました。傷つけないように、汚さないようにと頑張って守ってきたステータスが崩れてしまったのです!ノーミスでのゲームクリアならず…、といったところ。
本当にしょうもない話なのですが、たったこれだけで、いわば「ものに対する完璧主義」という雑念は崩壊してくれました。一度ケチがつくと、かえってすっきりするようで、それからは「使っていたらいつか必ず汚れる」くらいの心持ちで、気負うことなく使うことができるようになりました。
この出来事から私が学んだこと。それは、ものを使いこなすには大切にすることと完璧に保管することを区別することが肝心である、ということです。
そして、お気に入りの持ち物は、借り物でも売り物でもない、自分のものです。ご自身が心地よく使えることが、一番大切なのです。わたしは今、革靴も着物もそして傘も、大切に長い時間をかけて、使い潰すつもりで愛用しています。
名言のご紹介
ここまで読んでまだ、もったいないという呪いが解けない方もいらっしゃるかもしれませんね。
そんな方には、この言葉をお送りましょう。
これは、高価な買い物をする時に背中を押してくれちゃう素敵な考え方ですが、買ったあとにも当てはまるのではないでしょうか。
使い込む方が得をする。これはそのまま、所有するだけで使わないのは損だといえます。もっと早くそう考えることができていたら、こんなに長々と考え込むこともなかったでしょう。
ご自愛ください
もし、大切な友人が自宅に泊まりに来たとしたら、使い古したバスタオルは使わせません。新品のタオルを使わせてあげたいと、自然に思います。
初デートに出かける弟に服を貸すなら、お気に入りの一張羅を選びます。ボロボロで流行遅れなものは決して貸しません。
わたしたちは、大好きな人が使うとなれば「汚れるかもしれないからもったいない」なんて感じません。しかし、私自身が使う時にだけ、もったいないという邪念が生まれてしまう。自分しか使わないならボロボロでもいい。自分が我慢すればいいならそのままでいい。きっとこんな風に、知らず知らずに自分をないがしろにしている人が多いのではないでしょうか。
ミニマリズムとは無駄を省く生き方です。もしかしたら私は、無駄を削ぎ落とす過程で、自分自身まで削っていたのかもしれません。お気に入りの持ち物は、大切な人に使わせるように、自分が使うことも許してあげればいい。一言でいえば、ご自愛ください、ということですかね。
おまけ
ここでミニマリスト諸兄からは、「もったいないと思うのは、分不相応な価値のものを買ってしまっているからだ」とお叱りの言葉が聞こえてきそうです。Youtubeで著名なミニマリストさんも、食事に関して「舌が肥えると日々の食事がまずくなる。コスパが悪い」とおっしゃっていました。足るを知れということでしょうかね。
わたしも、際限なくクオリティを追求してお金をつぎ込むのには反対です。楽しさ、美味しさなどの刺激は、繰り返し経験することで徐々に同程度の刺激には満足できなくなってしまうそうですから、われわれ庶民は分別を持って適度な距離感で付き合っていく必要があります。そういう部分では、先ほどの説は一理あると言えるでしょう。
しかし、私たち全員がミニマリズムを極めたストイック星人でもなければ、霞をたべて生きる仙人でもありません。日々、楽しく暮らすために働いたり勉強したりしている一般庶民です。舌が肥えては困るからといって、美味しいものを食べられない暮らしなんて、文字通り味気がなさすぎます。
せっかく生きているんですから、美味しさも美しさも心地よさも、自分の暮らしに取り入れてみたい。音楽に感動したり、素敵な服に袖をとしてうきうきするなんて、他の動物ではできない芸当です。それこそが、人間社会の自然の営みなのかもです。
コストパフォーマンスを意識するあまり、人生のパフォーマンスが落ちては本末転倒です。コスパという考えそのものが足枷になっていては、それこそが無駄です。
まずは味を知ってから、自分の暮らしに取り入れるかどうか考えていきたいものです。足るを知るのは、その後でいいのではないでしょうか。
結び
自分自身とその暮らしを大切にする。
突き詰めれば、私の考えはこんな感じです。自分を大切にすることは、私たちミニマリストには特に必要なことなのかもしれません。
どうかご自愛くださいませ。
そして、みなさんの暮らしがより一層素敵なものになりますように。
おわり
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