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曖昧(あいまい)というやさしさ

こんにちは。香月です。
今日は書きたいリストで眠ってた私の思いであり、願いの話。
リアルの世界でもインターネットの世界でも、大事なことは一緒の話。

言葉の重み

私は残酷だ。
きっと今まで言葉の刃を無意識に振るっていて、結果として人を沢山傷つけた。
それはその瞬間に相手の表情で気付いたものもあれば、成長してから振り返って気付くものもあった。
ものによっては、私の勝手な加害妄想かもしれない。
だがどちらにせよ、少なからず私が人を傷つけたという事実に変わりはない。
悪意ある言葉より、無意識に出る一言がよりダメージを持つ。
そこには紛れもない本心があり、事実は何より人の心を抉るのだから。

私は臆病だ。
今まで傷つけた多くの人々に対する後悔が消えない。
何度もその時の言葉を思い返しては、自己嫌悪に駆られる。
あの時なんと言うべきだったのか、そんなIFストーリーを現実逃避のように幾つも生み出してしまう。
いっその事忘れてしまって、無かったことにしたいとねがってしまう。
なんて身勝手な行動だろう。
忘れてしまったら、次は思い出せないことを嘆くのだから。

言葉は重い。
1度発した言葉は取り消すことは出来ない。
何度も忘れては思い出すことだ。
いつの時代においても、きっと忘れ去ってはいけないことだ。

失敗から何を得るか

話は変わるが、人は必ず失敗をする生き物である。
完璧な人間なんていない。
完璧に見えるとしたら、それは生来の才能に加えその人が努力しているのだろう。
そして努力するに至った経緯や経験、きっかけがあるのだろう。
スポーツしかり、勉強しかり。
それはコミュニケーションにおいても同じことである。

「優しい人」は、優しくなるきっかけがあったのかも知れないし、優しくするよう努力してるかも知れない。
「誰とでも仲良くなれる人」は、自分でそうなろうと思い立った理由があったのかも知れないし、そのために心掛けてることがあるのかも知れない。
「話が上手い人」は、生まれた環境からそうなるのが必然だったのかも知れないし、話をストックするため色々な物事に触れるよう意識しているのかも知れない。

「人を傷付けたくない人」は、過去に傷付けた経験が重く心にのしかかってるのかも知れない。

無意識に言葉の刃で人を傷つけることは、きっと誰にでも経験があることだろう。
もしかしたら、自分が預り知らぬところで相手は傷ついてるゆえに気づけていないかもしれないが。
もし無いと言い切れる方はぜひそれを誇って欲しい。
人を傷付けない、それも才能のひとつである。

私は残酷で臆病だ。
人を沢山傷つけた。失敗を積み重ねた。
言葉は重い。
だからこそ、言葉を発することが怖い。

相手を傷付けたくないから、いつも静かにニコニコ笑うことに徹してしまう。
できる限り曖昧な言葉で、相手の感情を読みながら、言葉を発するようにしている。
私なりの無意識で人を傷つけないための、ささやかな対抗手段である。

曖昧という愛

世の中には沢山の言葉が溢れていて、時には自分が使うには怯えてしまうような言葉が聞こえることもある。
誰かを批判する言葉、決めつけるような言葉、自分を貫き通す言葉、断言する言葉。
これにはたぶん良いも悪いもない。
その時の状況によって意味も捉え方も変わる。
だが、対抗手段の曖昧な言葉を愛する私は、自分が使うにはひとつもふたつも前置きをしなきゃならなくなるなとか考えてしまう。

例えるならば。
「〇〇はこういう人・ものだから!」と言われれば、「私は〇〇はこういう人・ものだと思うな、実際とは違うかも知れないけれど」と言いたくなる。
みたいな感じだ。
予防線を沢山張るとも言える。

もしかしたら「曖昧」というのは、時によっては悪なのかも知れない。
断言できない人・ことを信頼できない場面も世の中には数多くあるだろう。
それでも「曖昧」の全てを包み込むような柔らかく大きな愛を、私は忘れたくない。

私からの願い

どうか、言葉を発するときに少しだけでも柔らかい言葉・曖昧な言葉を使って欲しい。
もちろん無理強いはしない。
ふと思い出して何となく気分が乗ったときだけでもいい。
それはもしかしたら相手を、自分を救うかも知れない。
傷つく人を、傷つけたという後悔を減らすかも知れない。
私と同じ後悔を抱いて欲しくない。

そして願わくば、今まで以上に世界に優しい言葉が溢れるようになって欲しい。


香月



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