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大河ドラマの「フィクション」から思うこと。

『八重の桜』は自分の好きな大河だが、その中で印象に残るシーンがある。第38回西南戦争の中で、元会津藩の山川中佐が反乱軍の西郷隆盛に対し「今のこの国は会津人が流した血の上に成り立っている」と喝破したシーンだ。これに対して西郷が「それを忘れたことは一度もなか」と応じたセリフもスキだ。

もちろん、これはフィクションだ。そもそも山川と西郷が巡り会ったのは、熊本城付近の反乱軍が陣を撤退した場所に、西郷は「丸腰で犬を探し」に戻ってきた設定になっている。絶対にあり得ないことだ。フィクションだと言うことを強調したかったのかもしれない。

だけど、ともかくカッコイイシーンだ。この会話はフィクションだけれども、戊辰戦争の際、会津藩は多くの犠牲を出したのは事実だし、またそのことによって新政府が旧勢力の一部を追討できたのも事実だ。また、会津戦争が本当に必要なものだったのかと思ったこともある。そのような事実や思いがあるから紹介したシーンが心に残るものになる。

事実のすべてをありのままに後世に伝えることはほぼ不可能だ。意識的にせよ無意識的にせよなんらかの選別された情報として、私達は過去の事実を知り、その物語を「歴史」という。そういう意味では「歴史」はフィクションである。

と同時にまったく事実に基づかない「歴史」というのもまたまれなのだとも思う。もうちょっと言えば、歴史物ではない全くのフィクションであったとしても、人間の個人的な経験にまったく基づかない物語など存在するのだろうか。そういう意味ではすべての物語全体がノンフィクションとフィクションの中間のものだといえると思う。

では「歴史」を題材にする物語の面白さとはなんだろう。それは「事実は小説より奇」というように、人間の思考を超えた物語のダイナミックさだと自分は思う。物語のこの流れでそんなことになるのとか。そんなことするのとか。そこで死ぬのとか。

また、ドラマとかではやむなく落としてしまった部分を、自然と「歴史」が補ってくれることもあると思う。うまく描くことができれば、「歴史」を前振りにすることで物語を分厚くすることも可能だ。大河ドラマではちょっとした脇役に感情移入できることも多い。

さて、大河ドラマの中には時代的におかしいのではと思うような演出を目にすることがある。もちろん、資料でわからない部分がフィクションになるのは当然だ。また、話をわかりやすくしたり、面白くするためのフィクションも物語として必要だと思う。

だけど、物語の都合に重きを置いて、事実をあまりにも無視してしまうような演出というのは、そもそも「歴史」をテーマにする必要があるのかなと思ってしまうし、そういった演出っていわば「歴史」という前振りを壊された感じで興ざめしてしまったりする。

上述の『八重の桜』のシーンのように大河ドラマが面白いと思うのは「歴史」という前振りを踏まえたフィクションだからだと思う。「歴史」に対するリスペクトを感じるものだ。フィクションが入り込むことで、いやな感じを受けるかどうかというのは「歴史」に対するリスペクトよりも、変な「ウケネライ」を優先させているところで線が引けるかもしれない。

『八重の桜』は3.11以降苦しい状況が続く福島の人たちの「歴史」を描いた傑作だと思う。その中にはフィクションの部分もあるが、(もとより「歴史」それ自体がフィクションが含まれるのだけれど)それは許容できるものであり、この作品の評価を変える物ではない。フィクションでなにを伝えたいか。その部分が重要だからだ。

※ ついでに『八重の桜』18話尚之助との旅で山本覚馬に死角が短刀片手に襲ってくるところを大垣屋(松方弘樹)という商人が十手でバッタバッタとなぎ倒すシーンがある。これももちろんフィクションで好きなシーン。松方さん殺陣をやりたかったと思うし、職人芸だ。多分大垣屋が商人だけど作中一番強いと思う。

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