石田三成によって思い起こされる中学校の記憶
石田三成は戦国時代の政治家あるいは豊臣家の官僚です。豊臣秀吉亡き後、関ヶ原の戦いで「豊臣側」にたち、徳川家康と闘い敗れた人物として皆様ご存じかと思います。
そんな石田三成に私はある思い出があります。中学校のころのことです。私は小学校のころから歴史もののアニメやゲームが好きでした。そんなこともあり、自分で言うのも何ですが、社会科のテストだけはよく出来ました。
テストもかなり良い点数はとれたのですが、社会科の先生達がなかなか難しい問題を作ってくるので100点が取れません。となるとこちらも意地でも100点を是が非でもとるために他の教科は捨て気味で社会の勉強をしていました。
中学1年生の間は100点は一回も取れませんでしたが、チャンスは2年生の1学期の確か中間テストだったと思います。歴史の範囲が戦国時代になりました。信長の野望で鍛えられているわたしは、ちょっと歴史を捨ててもいけるんではないかと思い、地理を重点的に押さえてテストにのぞみました。
テスト後、友達と採点をするのですが、どう見ても間違えがない。100点のように見える。やったと思いながらテストの結果を待ちわびていました。
テストが返されました。「98点」。
あーっと思いました。何が間違えていたんだろう。序盤の地理に目を落とします。どうやら間違えはなさそうです。あれっ。どうしたのだろう歴史の一番はじめの問題に○がついていません。あれ西軍の「総大将」。「いしだみつなり」だよなとおもって見てみると。答案用紙に
石田光成
と書いてある。しばらくなぜ間違えなのか理解できませんでしたが、少したって自分の間違いに気づきました。
悔しいのは、この社会のテストには「漢字で間違っていると×だが、ひらがなで書いて正解しているば○」というルールがあったことです。つまり「いしだみつなり」あるいは「石田光成」と書いていれば100点だった。
そのときは結構落込みましたが、また次があると思って、それ以降の社会科のテストに試験に臨んでいました。が、結局社会科のテストで100点は取る出来ずに中学校を卒業しました。
たわいもないテストの誤回答です。でも不思議と今でも忘れずに覚えている。石田三成を漢字で書くなんて大人になってほぼないので、こんなこと覚えていることに何かメリットがあるわけではない。でも、中学校時代の貴重な思い出の一つです。
それがどうしたというような話ですが、今日11月6日は旧暦の10月1日。石田三成が処刑された日です。ふと石田三成といえばと思い書いてみました。
※12/11 追記
指摘を受けました。西軍の総大将は石田三成でなく毛利輝元でしたね・・・。ただ当時どのような出題をされたかはさすがに記憶に残っていないので、「」をつけさせていただきました。(首謀者とされるとかがいいのか?)
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