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カトリック教会がNoという理由

カトリック教会の性の倫理が厳しいのは、セックスが嫌いだからなのでしょうか?何に対して「No」と言っているのでしょうか?Word on Fire のロバート・バロン司教が解説します(以下、動画の和訳。リンクは文末)。

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カトリック教会は、性を否定しているのか? 

カトリック教会への批判の中でも、特に一般的なものは「カトリックは"No"と言う宗教である」というものです。特に、性に関する事柄に対して。社会はより進歩的になってきているのに、カトリックは未だに「気難しい、古臭い清教徒」のように、人を非難しながら「No」と言う宗教だと見られています。初めに、わたしは「No」には二つの種類があることを指摘したいと思います。

まず、①単純な「No」。良いことに対して「No」と言うことです。妬んでいる人のことを思い浮かべてみましょう。彼らは、誰かが成功をおさめた時に「No!」と言います。その成功者を傷つけるために。
 
または人種差別主義者が、彼の攻撃対象に対して「No!」と言う時は、その人を傷つけるためです。これは、単なる否定です。
 
しかし、②別の類の「No」があります。「No」への「No」とも言えるでしょう。何か否定的なことが起きていて、それに対して「No」と言っているのです。そうすることによって、より高い「Yes」を宣言しているわけです。このように考えてみましょう。「NoへのNo」という、二つのマイナスは、より大きな「プラス」になりますよね。
 
例えを出しましょうか。
尊敬に値する、どのようなゴルフのコーチでも、「No!」と言うことの方が多いでしょう。「Yes」よりも。ゴルフのクラブの悪い振り方には、数千通りあるのですから。だからこそ、それらに対しては「No!」と言います。しかしそれは、より高い「Yes!」のためです。ゴルフのクラブの正しい振り方のための。
 
このように考えてみたらいかがでしょうか。カトリック教会の、性に対する「No」というのは、二つ目の「No」なのです。清教徒主義ではないのです。身体、快楽、性の否定ではありません。これは、「"No"への"No"」なのです。本来の性のかたちが、歪められていることに対しての「No」なのです。

カトリック教会が、NoにNoと言うわけ

では、より高い「Yes」とはなんなのでしょうか。聖書を読んでみましょう(性について直接的に書かれている箇所ではないので、驚くかもしれませんが)。パウロのローマの教会への手紙12章です。このような興味深い文が書かれています。パウロは、こう言います。

ローマの信徒への手紙 12章 1節
「こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。」

パウロは、一世紀の人々に語りかけています。当時の人々は、「いけにえ」とは何かをよく理解していました。古代のイスラエル人は、どのようにいけにえを献げたのでしょうか。傷のない、動物を神殿に持っていきます。子羊や羊など。そして、それを神に献げたのです。償いや交わり、感謝を表すしるしとして。
 
それを通して彼らは何をしていたのか? 彼らは、自分たちの心を神に向けていたのです。彼らは、自身の理性、意思、人格の全てを、神に合わせるために、それを行ったのです。
 
古代のイスラエル人は一度も、このように考えたことはないでしょう。「神がいけにえを必要としている」と。異教の神々は、人間の崇拝を必要としているようですが、聖書の神は違います。古代のイスラエルの民は自分たち自身がいけにえを必要としていたのです。なぜなら、いけにえを献げる行為を通して、彼らは、自らを神に合わせることができるようになるからです。
 
パウロは言います。「自分の『体』を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。」
 
あなたの人生のすべてを神へのいけにえと考えなさい、と。それによって、あなたは神にふさわしいものになる、と。

もう一歩、進んでみましょう。この神とは、誰でしょうか。パウロが、ローマの教会の人々に「自らを献げなさい」と言う神は。

愛に生きる、ということ

それは、イエス・キリストのうちに現れた神、愛である神です。ヨハネによる第一の手紙を読みましょう。有名な一節があります。

ヨハネの手紙一 4章16節
「神は愛です。」 

わたしたちが、神に生きるということは、愛に生きるということなのです。論理を整理してみましょう。あなたのすべてを、いけにえとして神に献げるということは、自らを神に合わせる、ということです。

神は愛です。それゆえに神に人生(命)のすべてを献げるということは、思い、意思、願望、感情、身体、性を全部献げるということです。あなたの中にあるすべてが、愛に変えられていく、ということです。
 
さあ、教会の性に関する教えは、どのようなものでしょうか。あなたの性は、「愛」になるべきだ、ということです。愛を運ぶ「器」となるべきなのです。愛と一致しているべきなのです。そして性が、その一致から外れていく時、教会は「No!」と言うのです。性が本来のあるべき姿から離れてしまった時、教会は「NoへのNo」を唱えるわけです。より高い「Yes」を守るために。

カトリック教会の性に関する教義がキビシイわけ

もう少し具体的に話してみましょう。レイプや性的虐待、性的搾取に対して、カトリック教会は「No」と言うでしょうか。当たり前です。それらは明らかな愛への裏切り行為です。だから教会は当然、「No」と言うのです。
 
さあ、次はどうでしょうか。婚外交渉。
「完全な相互的な愛への忠実」である「結婚」の外での性交です。教会は「No」と言います。なぜなら性交は、結婚の中においての愛の器になるべきだからです。
 
さらに踏み込んでみましょう。性交における、意図的で、故意の(恣意的な)、生命の産出を阻害する行為(人工的避妊)に対して、教会は「No」と言います。なぜなら、性交は愛の表現の一つであるべきだからです。教会は、レイプや性的虐待など、明らかな愛への裏切り行為に「No」と言います。しかし同時に、それより小さな愛の裏切り行為に対しても「No」と言うのです。
 
現代人はこれを聞いて、引くかも知れません。「もちろんレイプや性的虐待は反対するべきだが、性に関する他の問題に関しては、個々に柔軟性があっても良いのではないか?」と。
 
またゴルフの例えで恐縮ですが(自分でもどうしようもないのです)、良いゴルフのコーチと練習する時、コーチは目につくような、ひどい癖について注意するでしょう。「基本的なところが間違っていますよ」と。
 
しかし本当に素晴らしいスイングを打ちたい人は、コーチからもっと踏み込んだ指導を求めるでしょう。基本的な問題だけでなく、もっと深く踏み込んだ指導を。「もう少し微調整をしてみましょう」と言ってほしいと思うものです。その人は、コーチに「No」と言ってほしいと願います。自分の下手なゴルフのスイングに対して。
 
さらに、その人はコーチに、より高い目標を掲げてほしいと願うものです。ジュニアの選手や、そのへんの、ちょっと上手な週末ゴルファーをお手本にするのではなく、フレッド・カプルス、ジャック・ニクラス、ローリー・マキロイなどの優秀なゴルフ選手をお手本として示してほしいと願います。彼らを高い理想として掲げたいと思うものです。

大事だからこそ、理想は下げてはいけない

重要なポイントはこれです。わたしたちは、自分が凡庸でいることをゆるしてはならない、ということです。特に、人生において重要な事柄に関しては。「大きいところを守っていれば、その他は何をやってもOK」というようなことはできません。
 
このような助言を、楽器を練習している人は受け入れるでしょうか? ゴルフのスイングを上手く打ちたいと思う人は? あなたが人生において、重要だと捉えていることに対して、「そのひどい部分だけ直せば大丈夫。後は何をやってもいいよ」と。
 
いやいやいや。人が本当に真剣な時には、緻密でブレない指導を求めるものです。より完成に近づくために。
 
カトリック教会は、わたしたちを「愛である神との一致」に導いているのです。どの側面においても。性も含めて。だからこそ教会は、わたしたちを正すのです。説得し、奨励するのです。わたしたちに、高い理想を示すのです。
 
もし教会が理想を低くしたとしたら、どうでしょうか。わたしたち人間は失敗することが多いから、と。そりゃ、わたしたちは失敗しますよ。ゴルフのボールを上手く打てないのと同じように。だからといって、理想を低くはしないでしょう。だからこそ教会は、常に高い理想を示します。
 
知っておくべき肝心なことはこれです。
教会が発する数多くの「No」が力強いのは、「性の本来あるべき姿」への教会の「Yes」が明確だからです。 

動画のリンク:  Word on Fire, " Sexuality, Sacrifice and Love"


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