安全と危険の均衡
①柵もない沼地で木枝にタコ糸を結んで針をとりつけ、パンを練って餌にしてフナ釣りをしていたこと。
②平地林の奥に廃材を持ち込んで秘密基地をつくってどうでもいいガラクタを隠していたこと(当時は宝物)
③よっちゃんいかをエサにでっかいアメリカザリガニが釣れて喜んでいたら上級生にカツアゲされたこと。
④池と池をつなぐ地下用水路に入り隣の池までいけるか試してみたこと。
これは、昔、遊んだ記憶をたどった内容に
良く耳にする子供のころ(記憶では4,5歳から小学生低学年)の話です。
当時は特別な遊びではなかったと思うのですが、今考えると相当危険な行為や(とくに、①と④は一歩間違えれば死んでいたかもしれません。)不衛生、理不尽、非管理、そんな環境で楽しんいたのです。
家の前は石の道、校庭も粗い砂利で、よくすっ転んでは膝に小石が入りこんで血だらけになっていました!とか、それでも遊びたい一心で痛さなんて気にならず消毒など後回しで遊んでいました!とか…
今の時代は、当時の環境に比べれば、住環境をはじめ公的な安全管理も徹底され、ずいぶん安全・清潔・快適になったものだと感じます。例えば、最新の輸入遊具の下は、やわらかなクッション素材で覆われた地面、すべて人工物で造られたさしずめ舞浜にあるような世界。もちろん、子どもたちの安全性は第一に考えるべきことは疑いの余地はありません。しかし、どこかで”痛さ”を知らなければ危険認識を自ら学ぶことができないのも事実です。
子どもは、毎日の遊びを通して様々なことを学びます。ケガをしないに越したことはありませんが、転んでぶつけて痛い目にあってこそ危険予測が身につきます。環境はモノだけではありません。クラスのお友だち(相手)との関わりのなかで、ひっかきやかみつき、言い合い、とっくみあいなどもおこるでしょう、そんななかで心や体に感情を染み込ませながら成長をしていくものです。成長するには安全と危険の均衡が必要なのではないでしょうか。
ところが、そんな正論すら表顕しづらくなるような幼い命が奪われる事件が相次いだことは記憶に新しいと思います。命あってこその教育ですから安全の確保は何にも優先すべき事項です。それでも、事件のような社会病理に対しては過剰な安全対策ですら時に無力であり完全な安全、無菌状態は日常社会に存在しないことを理解、認識しなければなりません。危険は何も身体的なものに限ったことではありません。世の中には騙し、誘惑、欺きなど様々なトラップが蠢いているのです。危うさを嗅ぎとれる嗅覚を持てるかは自身の頭で考えられるかどうかです。個々の子どもたちに対しては、親として、保育園として、地域として子どもたちが、身も心も成長する援助、危険から身を守る術を教えながら見守り続けたいと思います。
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