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真面目、ってなにかをかんがえてみた。

私は、よくnoteで自身のことを「真面目」であると書いている。
有難いことに、職業柄、真面目であることは安心を与えますよね、と書いてくださる人もいた。

私の真面目は今に始まったことではなくて、幼少期からと自覚していて、親だけでなく、軒並み友人や同僚、先輩からもよくこの言葉をかけられる。
それに甘んじて、真面目だねと言われることにどこか安心してしまう節はある。


        ◆

でもよく考えてみたら、真面目だねと言われるのは全然褒め言葉じゃない気がする。

真面目というのは一種の守りにしかならないのではないか。
一辺倒でしか物事を考えられないし、言われた通りにすることには長けてるかとしれないけど、自分の頭で考えてないよねってことでは?
真面目は固い。柔軟性がない。変化がない。変化を好まない。いつも同じが安心で、いつも同じが管理しやすい。
でも世の中そんなことばかりではないはず。
揺らいで、動いているその中でどううまく波に乗り、そして流されないで自分の頭で考えて行動できるか?
それが本来求められる姿なのではないか?


そして真面目が良いと一言で片付けられないさらに深刻なことは、
信念から正しいことをしようとしているばかりではなく、もしかしたら自覚的あるいは無自覚的に、自分の行動を起こす際他人の目を気にして正しくあろうとする、ということもあるのかもしれない、ということだ。

私はそろそろ、真面目を脱しなければならないだろう。

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