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『クラッタリング・ミュージック』

蛸足配線から火花が飛び出し、コンセントの窪みにたまった埃の塊に引火して、アパートの土壁が黒い煙を放ちながら燃えていた時、僕は35年以上務めている新宿の会社で、ネットワークシステムの脆弱性を見つけ出そうとする振りをして、いつものようにネットサーフィンをしていた。

火災保険は、2年前に契約が切れた際に更新手続きをしていなかったため、築44年の賃貸住宅の原状回復費用約90%を自己負担することになり、僕は殆どの貯金を使い果たした。

その後、僕は昼でも暗いような市営住宅に移り住み、自治体からの借り入れを減らすためにユーチューバーを目指して日夜奮闘していたが、いつまで経っても再生数は二桁を超えず、パソコンの前に座ると、背中にじっとりと嫌な汗をかくようになり、終には動悸が収まらなくなってきた。

市営住宅の裏手に並んだソメイヨシノが一斉に芽吹いて、赤黒く濁って散るまでの間に、僕はようやく、かつて自分が想定していた、プチブル的余裕でもって面倒事を回避する“終身モラトリアム生活”へは二度と帰還することができないのだと悟り、真夜中過ぎに上下の歯をランダムに打ち鳴らしながら、独り長大な慟哭を繰り広げていた。野鳥の囀りのようにも聴こえるその音の意味を強引に翻訳すると、おそらくは次の如くなるだろう。

おぉ、人生を一からやり直さねばならないと了解した時、必要になってくる諸要素よ、何処(いずこ)へ?
若さ、才能、無根拠な自信。なべて、時の海底(うなどこ)へ消え失せて久しい。
人口金字塔(ネットワークシステム)の急所を見つけんと、渺茫(びょうぼう)たる海をひねもす揺蕩うていた我に、如何なる救いがあろうぞ?

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「それは、大変でしたね。前職は何を?」
「セキュリティエンジニアです」
「んー。まったく業種が違うんですけど、大丈夫ですか?」

ハローワークでは、日々そのような常套的対話が繰り広げられていた。そうして僕は、毎度返答に窮しては、上下の歯を不規則に鳴らし続けるのみなのであった。

《予期せぬことが起こるためには、常に今日と同じ明日が続くものと妄信していなければない。夜の帳は太陽を覆い隠す。明日の君を照らし出すために。》

『夜の帳に』北川均

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春風が土の匂いを運んできて、下半身に肯定的な力を漲らせるように感じられはじめたある日、僕は不意に、元妻と生活を共にしている一人娘の令子に電話をかけてみようと思った。

「お父さん? 何? 今しんどいんだけど」
「そうか。仕事は順調か?」
「それなりだけど。ねぇ、どしたの突然?」
「いや、お父さんな。実は、家焼いちゃってさささささささささささ……」
「え?」
かかかかかかかか火事だよ。アパート焼けちゃって、今、職安通いながらユーチューバー目指してるんだだだだだだだだだだ……」
「何それ。気持ち悪い」

僕は咄嗟に電話を切っていた。
歯の上下運動が始まると、直ぐには収まらない。緊急地震速報のアラートの如く問答無用で反復される語尾を、哀しい気分でやり過ごす他ないのだ。

この日以来、僕には春の風も、何処かしら気怠い空気のように感じられて仕方なかった。

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新社会人が街を跋扈し始めると、僕は劣等意識のようなものを抱き始め、硫黄の匂いが立ち込める市営住宅に引きこもるようになった。
部屋の中では、殆ど何もしていなかったが、受動的に観れたのでテレビだけは点けたままにしていた。小麦粉にキャベツのみを混ぜて作った水っぽいお好み焼きを、やみらみっちゃに頬張りながら、只管画面を凝視している。

新型コロナウイルスの感染状況と、ロシアのウクライナ侵攻を巡る時事ニュースの合間に、ウィル・スミスが、アカデミー賞の授賞式でコメディアンのクリス・ロック氏を壇上で平手打ちして10年間出席禁止になったというトピックが流れる。映画監督や有名俳優による性加害報道と謝罪報道を、お笑い芸人が真剣な面持ちで議論している。

明日の食費をどう工面するかで頭を悩ませていた僕にとって、それらの話題は何一つ切実に響いてこない。
暫し放心した後、僕はスマホを取り出し、twitterのタイムラインを眺め遣ることにした。

『「いいね」をもとにおすすめ』とやらで、フォローもしていないアカウントからのツイートが表示されるが、まったく興味がない。不躾なプロモツイートも、いちいち癪に障った。フォロワーのリツイート内容が気になったので、一応トレンドも見てみる。

『ピエール瀧 寄り道も悪くない』
『松田聖子が活動再開 涙抑えられず』
『NHKお天気お姉さん「号泣放送事故」の真相』
『【山里亮太】蒼井優の”推し活教育”がすごいと話題!元宝塚スター・愛月ひかると奇跡の対談!』……

スクロールしながら、僕は戦慄した。
端末は、誰かのプロモーションで埋め尽くされていた。
歯が顫動し、キャベツのみを具とした水っぽいお好み焼きを戻しそうになる。

僕は携帯を切った。
これ以上、不要な情報に苛まれたくはなかった。

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調子のいい時には、火事で家と財産を失った元セキュリティエンジニア(50代男性・バツイチ・吃音症あり)が転職に成功するための秘訣をインターネットで虱潰しに探したりした。似たような記事は幾つかあったが、ピンポイントで自分と同じ境遇にある者は一人としていなかった。映画や漫画の中に自分より不幸な人間を探そうと躍起になった時期もあったが、どれも絵空事のような質感で、頗る気が滅入った。

夜には、ソメイヨシノの残花に向かって歯を打ち鳴らした。全ての可能性が失われてゆく中で、どういうわけか、この特殊技能のみが命脈を保ち、且つ洗練され、無信仰の僕にとっての祈りに近い何かへと変容してきているようにすら感じられたからだ。

その日も、僕は、長く伸びる星辰の光に僕なりの祈りを捧げていたように思う。

ぜんたい自分は、明日もここにいられるのだろうか?
明日、ここから離脱しようと、ふと決意したりしないだろうか?
自分が死んでも誰も困らない。
妻は着信拒否。娘も最後の電話で「気持ち悪い」と言った。
元同僚らは、励ましの体でやってくるが、不幸になった自分の境遇を嘲笑うだけだ。
火事で家と財産を失った元セキュリティエンジニア(50代男性・バツイチ・吃音症あり)を励ます者など世界中何処を捜してもいない。
誰も困らない。もう、誰も困らないんだ。

「あの、すみません……」

無心で祈りを捧げていた僕は、突然の声に驚き、水浴びをする鴨のように手足をバタつかせて無様に振り返った。
見れば、ソメイヨシノの陰に、一人の少年が立ち尽くしている。黒髪で、肌の色が白いうえに、黒シャツ白パンツを合わせているため、頭部と胸部が闇に埋もれて見える。

ななななななな何ですか?」
「これ、聴いていただけませんか?」

言うと頭部と胸部の欠けた少年は、一枚の自作CDを手渡して寄こした。

「作ってみたんです。曲」
「君ががががががが?」
「あ、はい」
どどどどどどどどうして?」
「自分、音楽好きで。でも、今まで全然いい曲できなくて。でも、ここに引っ越してきて、夜におじさんの声聴いて、何ていうか、ちょっとインスピレーションが沸いたっていうか……。あの、ほんと、暇な時でいいんで」

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音源は、『クラッタリング・ミュージック』と命名されていた。
クラッタリング(clattering)とは、コウノトリ等が求愛や威嚇の際に嘴を激しく打ち鳴らすことをいうらしい。
ソメイヨシノの裏から放たれる僕の吃音リズムを、市営住宅の向かいにある黄色い屋根のアパートから聴いていた少年は、昼にこっそりバイノーラルマイクを仕込んで、音の主を特定しようとした。どうしてこんな住宅街にコウノトリがいるのだろうかと疑問に思っていたら、50絡みのおっさんが自身の歯を上下に打ち鳴らしていたと知り、かなり驚いたとのこと。
また彼曰く、スティーヴ・ライヒという現代音楽家の作品に、『クラッピング・ミュージック』という手拍子だけで構成されている楽曲があるそうで、僕の吃音とコウノトリのクラッタリングを組み合わせながら、ライヒの手法との異種交配を目指したのだそうだ。

音楽的素養のない僕にとって、それらの説明は理解し難いものだったが、彼の音源が齎すシンプルな美しさは感受することができた。

楽曲は、以下の構成を辿る。

僕の吃音リズムは、ある段階までは法則性を持ってきっちり反復されているのだが、中途で嚙み合わせがおかしくなり、段々と不快感を誘うようになる。一旦失われたリズムは恢復せず、音楽の形式を失効させるほどのカオスへと導かれる。そこへコウノトリのクラッタリングがやってきて、僕の吃音にささやかな求愛を示す。いつしか威嚇の様相を呈してくるクラッタリングを止揚するようにして、僕の吃音は本来のリズムを取り戻してゆく……

硫黄の匂いが立ち込める市営住宅の一室で、僕は僕とコウノトリの合作をリピートしながら、独り滑り気のない涙を迸らせていた。

かの音源から伝わってきたのは、明らかに、間違いなく、今ここにいる自分に対して作られたものだという揺るぎない事実だった。

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あくる日、僕は頭部と胸部の欠けた少年にお礼を言いに、黄色い屋根のアパートメントに向かった。
名前を聞いていなかったので、手当たり次第にチャイムを鳴らして聞き取り調査をしていたら、管理会社を名乗る痩せた男が現れ、「いい加減にしないと警察を呼ぶぞ」としゃがれた声で脅されたりした。僕は事情を説明しようと躍起になったが、件の吃音が障壁となり、思うように話せないでいる。挙句の果ては、「入居者様に関しては、個人情報なので教えられません!」と一方的に突っぱねられる始末。
暫し途方に暮れていると、上の階から若い女の声が届いた。

「佑二君のことですかねぇ? その、音楽やってるって子」
「こんにちわわわわわわ
「現代音楽ですよね?」
「あー、そそそそそそうです。多分、そそそそその人です」
「彼がどうかしましたかぁ?」
「ちょっと、止めてくれませんかね。そういうの。勝手に!」
ぼぼぼぼぼぼ僕、CDを貰ったんです。どどどどどどうしても、ああああありがとうって伝えたくて……」
「ちょ、余計なこと言わないでってば!」

エンジニア時代の自分のように、予期せぬ事態を只管穏便にやり過ごそうとしている管理会社の男の、強圧的でありながら何処かしら羞恥に塗れたしゃがれ声を打ち消すかの如く、僕は叫び続ける。

おおおおおお教えてください。かかかかかか彼は何処にいるんですかかかかかか……?」

吃音が反響し、アパートいっぱいに遍在する分身が合唱しているように聴こえた。

「今朝早く、バリ島に発ちましたよ。ケチャを勉強するんですって」

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それから僕は、またハローワークに通うようになった。
相変わらずの常套的対話。振るわない成果。
エスカレータ―を降りながら、僕はふと、令子に電話をかけようと思った。話すことなど何もないというのに。

「お父さん? 元気? この前はゴメンね。何かイライラしてて」
いいいいいいいいんだ。大丈夫だから」
「ほんとに? 無職なんでしょ?」
だだだだだ大丈夫。ななななななな何とかするよ」
「私も頑張るね。もうすぐお母さんになるんだ」
「え?」
「赤ちゃんが生まれるのよ。8ヶ月だって」

僕は「コウノトリが運んで来たんだね」と言おうか迷ったが、「おめでとう」と言うだけに留めた。

夕飯は、おそらくは池袋の炊き出しになるだろう。


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