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『他人の花』

男は道に迷っていた。
塗装の剥げた継ぎ接ぎの道に沿って歩いていくと、エメラルド・グリーンのフェンスが連なる一本道に出た。フェンスの向うには森があるようだが、人の気配はない。
もう半日も歩いているだろうか。どこまで行っても同じ景色が続いている。

やがて男は、フェンス越しに奇妙な花を見つける。

螺旋の花弁は透明に色づき、豆電球のアンカーとフィラメントによく似た銀色の雌蕊と雄蕊が、手招きするように風に揺れている。

物珍しかったので、男は写真を撮った。
だが、その撮影のあと、男は消息を絶ってしまうのだった。

―――――――――――――

数年後、ぼくは、ある女友達に誘われて、展示会場へ赴くことになる。

久しぶりに会う女友達は、黒を基調としたシックな服に身を包み、物憂げな気配を付き従わせていた。

「これが私の最新作であり、彼の遺作なのよ」

長大なキャンバスには、瞬間的に定着された筆致が、フラクタル状のパターンを醸成していた。目を凝らすと、先に紹介した行方不明の男、虹森閉開(にじもりとじあき)氏が撮影したと思しき写真や動画データが画布に直接埋め込まれている。その幾つかには、女友達自身の姿も映り込んでいた。

「自分の写真があったりすると、ちょっと恥ずかしくない?」

「別に」

「これは、いつの写真?」

「夏かな。水族館に行ったの」

絵の具の海の中で苦し気にループしている動画データには、それぞれに物語がある。
たとえば、渓流釣りに行った際、「熊に注意!」の看板を見つけた虹森氏は、独特のタッチで描かれた熊のイラストに愛着を抱き、至近距離から撮影をはじめたが、遠景にピントを合わせた瞬間、森の木陰に本物の熊を発見し、慌てて逃げ出した。
その時彼が感じたであろう動揺及び狼狽は、激しい手振れとなって映像に記録されている。その振動を擬えるように、チューブから捻り出したままの絵の具が、キャンバスを走り抜け、またぞろ別の映像へと導いてゆくのだ。

「ナムジュン・パイクの隔世遺伝みたいでしょ?」

「あぁ。いわれてみれば、確かに」

「絵の具がね、接着剤の役割を担ってるのよ」

「映像の視聴形式としては、なかなか面白いね。偉そうに批評する気はないけども」

もしここで、ぼくが「偉そうに批評」していたとすれば、次のような欠点を論うだろう。

映像を観ようとすると、絵具が邪魔をして、絵画を観ようとすると、映像がチラついてくる構造は如何なものか。この障りは、映像単体として観直した場合、おそらくはスマートフォンによる造作のないものであることを、絵画単体として鑑賞した場合、アクション・ペインティングの劣化コピーに過ぎないことを、共に隠蔽している。どちらか一方で成り立つかといえば、そういうわけでもなく、どっちつかずの曖昧な領域、つまりアートという究極の大義名分の元でしか存続できぬ不良品であり、ミクストメディア特有の凡庸さを、いたずらに強化するものだ。

「制作意図は?」

「それは彼に聞いてみないと」

ぼくは念のため、ギャラリー内をぐるりと見回してみる。コンクリートの壁面には、同工異曲の絵が数点並んでいた。だが、鑑賞者は一人としていない。天井付近には、剥き出しの配管が縦横に伸び、時たま淀んだ音を反響させている。非常口階段付近に人影が見えた気がしたが、よく見ると自分らの影で、虹森氏の姿は何処にもなかった。

ぼくは慎重に尋ねなおした。

「半分は君の作品だろう?」

女友達は、キャンバスのある一点を指さし、何処か遠くをみはるかすような眼をしたまま、突如話題を変えた。

「虹森閉開ってペンネーム、どう思う? 私は好きじゃないな。だって本名は全然違うのよ」

「そうなんだ」

「そうよ。凄く普通なの。笑っちゃうわ。でも今は、彼に敬意を示して虹森くんと呼ぶことにしようか」

「そうしよう」

「虹森くんは、多分だけど、この花を見て以降、花にとりつかれてしまったんだと思う」

「中央にある、そのちっちゃなやつ?」

「うん。色んな国に行って、色んな場所を探したんだと思う。でも、結局見つからなくて、最後は花のように姿を変えて、消えてしまったの」

「そこまで凄い花のようには見えないけどなぁ。ノヴァーリスの『青い花』でもあるまいし」

「花の中に、見たのよ」

「何を?」

ぼくは、芸術鑑賞者として、やや拙速過ぎたのかもしれない。その証に、彼女は押し黙った。

―――――――――――――

どれくらい時間が経っただろう。
人気のないギャラリーには、沈黙のみが躍動している。

そこには、ぼくの知らない彼女がいた。

虹森閉開氏の恋人である前の彼女は、ぼくの恋人だったように記憶している。にも関わらず、ぼくには確証がなかった。
いつだったか、クールベの「世界の起源」とそっくり同じアングルで撮影された彼女自身の映像を譲り受けたことがあった。あの頃は、双方に恋愛感情があったようにも思う。だが、長く鑑賞していないため、細部が思い出せない。自宅のHDのいずれかに厳重に格納されていることは確実なのだが、どうにも思い出せない。

抽象画の背後に鎮座する小型PCからは、間断なくファンの音が流れ続けていた。

「タイトルを決めるまでは、結構悩んだのよ。最終的には、『他人の花』としたんだけど。どういう意味か分かる?」

「彼と君の人生の総括……。いや、ちょっと分からないな」

「メモの中にあった言葉なのよ」

「彼の?」

「うん。そういうのを一ヵ所に集めたら、彼の輪郭っていうか、全容が見えてくると思って作ってたんだけど、完成して見えてきたのは、殆ど赤の他人なのよね」

「君の知らない虹森君がいた?」

尋ねながらもぼくは、本当にしたい質問は、ひた隠しにしている。
彼女は、虹森氏にもクールベの「世界の起源」を見せたのだろうか。

「ていうか、思い出アルバム」

「どういう意味?」

「他人の思い出アルバムって、開くとドキドキしない? 禁忌を犯してる、みたいな」

ぼくは動揺する。
「世界の起源」を開示した頃の彼女のみを懸想していたのがばれたのではないかと思い、一瞬焦ったのだ。

「プライベートなものだからね」

ぼくは遅まきながら、目の前にいる彼女に誠実に向き合おうとする。
物憂げな顔には、老いの兆候が現れはじめていた。モノトーンの服も喪服に似ている気がした。やはり、あの頃とは違う。彼女もぼくも、今ではまったくの別人になってしまった。

「自分の人生とは違う人生を歩んできた誰かの記録があるってことは、考えてみれば不思議なことだよね。二度とは起きないことなのに、あまりにもありふれていて、顧みられることもなく、いつの間にか消えてる」

「気にしたことなかったけど、考えてみれば、確かに不思議だね」

いいながらぼくは、性懲りもなく「世界の起源」を想起していた。正確には、同作品と瓜二つのポージングで横臥する彼女の秘部の深みを。

「彼は花の奧に、そういう不思議な現象を見つけたのだと思う。もう今では、花の一部になっているでしょうけど……」

彼女の詠嘆にも似た長い解説を聞いた後で、あらためてキャンバスに視線を投じてみると、何の感銘も受けずにいる自分に驚かされる。真摯に観ようとすればするほど、特にこれといった感慨も沸いてこない自分に心底驚かされる。

「他人の花」は、今もフェンスの向う側にひっそりと咲いているのだろう。


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