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映画『BATON PATH』について

先日、上映会に合わせて「ANI-RADI_Runs」という企画で、主催の竹中さんと、この映画の成立について色々話したんだけど、喋るのは慣れてないし、20分くらいが目途だったこともあり、ちょっとまとめきれなかったんで、ここに残しておこうかと。

ラジオは、簡単な自己紹介から始まるんだけど、ぼくはいきなり、「映像を作っている『ただの人間』です。よろしくお願いいたします」と、ぶった。これは、全編のナレーションを担当したRAMDYAさんの紹介文を踏襲させてもらったものなんだけど、この映画の根幹に触れていると思われたんだよね。

「ただの人間」。

なかなか聞きませんよ。皆、何者かになろうとする時代ですから。
面接の時にプロフィール欄に「ただの人間」ですって書いたら殆ど採用されないと思うんだけど、「ただの人間」であることを許さない社会にはなってほしくはないよね。

少し前に「ファスト映画」ってのが有罪判決を受けたって話題になったよね。
話題になるほどだから、視聴者も多く、影響力があったんだと思うけど、なんでもかんでも早くてカンタンなほうがいいという潮流は、映画産業そのものに影を落としていて、その証拠に、ここ数年でスマホ専門の映画祭が数多く生まれているじゃない?
で、映画製作者も、「ながら見」に堪えるプロットを是とする方向に舵を切りつつあるわけ。
『BATON―』が今の形状を辿った理由のひとつは、やっぱり、それらの潮流への批判として「スロー映画」をやってみたかったというのがあると思うんだよね。
とはいえ、もともとこの映画は、動画で撮影された世代交代の物語であり、一種のピカレスク映画だったんだ。
入国制限などもあって、撮るはずのシーンが撮れなかったりという、やむにやまれぬ事情もあったんだけど、映画は常に、不確定性に曝されているものだからさ、現在のかたち、つまりフォトロマンという、独特の形式に収まったのには、ある程度の必然性があったともいえる。

つまりぼくらは、緊急事態宣言以降、極端に行動を抑制されてるじゃない?

動きがないのは、映画ではなく、
2019年以降の世界そのものなんだよ。

それで、フォトロマンという古い手法を取り入れてみたんだけどさ。

全編止まった絵で構成されるこの映画が、アニメーションの上映会に潜り込んでいるという状況は、逆説的なんで、興味を持って観てくれる人もいるんじゃないかと思ったんだけど、結果は蓋を開けてみないと分からないよね。一作だけ30分と、やたら尺が長いし。
(プログラムを独占してしまう形になり、申し訳ありません)

フォトロマンは、クリス・マルケル監督が『ラ・ジュテ』っていうSF作品で展開していったものなんだけど、そこから後継らしきものが現れていない気がしたんだよね。
テリー・ギリアム監督が『12モンキーズ』で、SF大作に編みなおした際には、プロットが問題だったわけで、フォトロマンという形式自体を問い直す作品は殆ど現れていない気がしたんだ。いや、おそらくは現れてはいるんだろうけど、大して話題にならず、極東の島国に、ぼーと生きている「ただの人間」のところまでは届いていない。そういうことだと思うね。
まぁ、それとそっくり同じ運命が、この映画にも待っていると予想されるわけだけど……。

日本では、たとえば押井守監督の『立食師列伝』とかhaiena監督の『LUGINSKY』という作品で、部分的に近しいことをやろうとした痕跡が見えたんだけど、色彩やセリフに制限はなくて、映像手法的にも、先端的な技術を投入していて、どちらかというと、コラージュに近い印象を受けたんだよね。

ぼくの考えるフォトロマンは、簡単に言うと引き算の手法だから、『ラ・ジュテ』から40年、当時よりも遥かに自由度が増した映像技術をいかに減らし、どう捨て去るか?
そういうところに重点を置かれて制作されたんだよね。
でも、実際やってみるとわかるんだけど、一旦手にした情報やテクノロジーを捨て去るというのは、生半可なことではないんだよね。
だって、元はカラーで動きもあるんですから。

in . harmonyさんの役者さん達が、凄くいい演技もしてくださったしね。

まず、冒頭の山本さんのヘイトが、この映画のテンションを決めてるんだよ。それから、「壊の日」副代表を演じてくれた橋本宙樹さんの、あの悪意ある人間のリアリティ。そういうのを観ちゃうと、やっぱり部分的な処理で済まそうかなとか、色々誘惑があるんですよ。

そうこうしているうちに分かってきたのは、色彩や動きを捨てるのは、地位や肩書を捨てるのと同じで、かなりの決断が要るということ。
「ただの人間」には簡単にはなれないということ。

自分は、煩悩に塗れた人間なので、それを決断するのに三年もかかったということだと思う。

引き算の手法を、もう少し具体的に言うと、『ラ・ジュテ』では、ある美しい女性が重要な役割を果たすんだけど、『BATON―』は、男性のみが画面を満たしている。
後半ひとりだけ女性(度々自作に登場してくださる、いぐちさやかさん)が登場するんだけど、ほんのわずかで、基本的には男性のみで演出されているんだ。
これは、殆どの映画にいえることだけど、「都合よくきれいな人が現れて、理由もなく主人公に好意を持つ」みたいなプロットへの批判なんだよ。
また、そういう映画を観ても、自分の人生にはそんなことは起こらないと知ってしまった観客の実存感覚に応えるものだとも思うんだけど。

それから、全登場人物の声を、ナレーション担当者のRAMDYAさんが演じ分けてるんで、落語のような、所謂モノフォニーになってるんだ。
当初は女性の講談師の方に語っていただく予定で、台本を渡すところまでいってたんですけど、実現しなかったんだよね。
結果的には、要素を減らすことができたし、引き算としたは、今のほうがよかったと思いますけど。

色彩に関しては、白黒ではなく、マスタード色。
よくセピアと勘違いされるんだけど、実際には黒・白・黄色の混色なんだ。
アンディ・ウォーホルの『マスタード色の人種暴動』っていうシルクスクリーンを参照したものなんだけど、マスタード色は、黒・白・黄色、つまり人種の皮膚の色の混色でしょ。
一見、人種暴動を煽るように見える絵が、色彩的には調和を目指されているってのが、スマートでいいなと思ったわけ。
この映画も、冒頭にどぎついヘイトスピーチがあったりするから、あらかじめ色彩で回答しておきたいと考えたんだよね。

他、プロットを具体に落とし込むための工夫として、海老名部長を演じられた松山さんに、6時間の聞き取り調査をしたりもしたなぁ。
彼は、元本職の刑事なので。
松山さん曰く、本物の刑事は、ドラマで見るように拳銃をバンバンみたいなことはめったにないそうですね。そもそも貸出手続きが煩雑だとか。
服装も、本物の刑事は所謂刑事ドラマとは違って、一般人に擬態しているんだそうな。
まぁ、マル暴は知らないけど、あんまり凄みがあると、犯人にバレちゃいますからね。
だから、実は刑事に見えないのが本物の刑事なんですって。
要は、刑事も「ただの人間」に成りすましてるってこと。
そう聞いてから編集してるとさ、全然刑事に見えない後輩の演技も、ちょっと違って見えてくるんだよね。
だって本物の刑事は、刑事に見えないわけじゃん?
案外これが、本物の刑事なんじゃないの?とか思ったりしてさ。
そういう逃げ方をしてましたね。

30分の『BATON PATH』を観てくださった方には、甚だ迷惑な話かもしれないけど、この映画には、後半パートもあるんですよ。
二部構成なので、あと30分くらい続いたりします。

後半は舟木っていう、交通事故で息子を亡くして以来、心に傷を負って現場を外れた中年刑事が主人公になっていって、「壊の日」メンバーらと三つ巴の逃走劇を展開していくんだ。

タイトルが示す通り、主人公が前後半で交換するという仕掛けだね。
いや、よくない構成ですよ、これは。

前半では、一向に進展しない捜査がフォトロマンという形式に説得力を与えていたんだけど、後半では、舟木の心の状態が止まっている。
そういう構成になってるんだけど。

あらためて見てみると、この映画は、ちょっと将棋に似てるね。

カラーリングが将棋盤みたいだしさ。群像劇で、kを詰ませたら勝ちというルールに則って登場人物が動き周り、彼らの配置が、ある意味を持ってくるように構成されている。
また将棋は、一種の戦争ゲームといえると思うんだけど、表面上は静謐な印象を与えるじゃない?
『BATON―』も、猟奇犯罪というどぎついモチーフを扱いながら、どこかラジオドラマのような落ち着いた印象をもたらすことに成功してるんじゃないかと思うんだけど、どうなんだろう?
もしそうなら、これはもう、声をやってくださったRAMDYAさんのお陰だよね。
でも将棋の場合、難局に差し掛かると一時間くらい長考することはザラだけど、この映画では、せいぜい3分くらいしか絵が止まってないんだよね。将棋中継がこれだけ受容されているのだから、臆さず1時間くらい止めてみるというのも手だと思うんだけど、「ただの人間」のぼくに、そこまでの勇気があるかどうか……。

ラジオでは、今後の活動として、アフターコロナ(ウィズコロナ?)の
映画祭の在り方なんかについても語ったりした。

大きなお世話かもしれないけど、「祭」という言葉がどうしても気になってしまうんですよね。

「まつり」は、民俗学的な文脈でいうと、ハレとケのハレに当たるものだと思うんだけど、日常が非日常になってしまった現在においては効力が薄いというか、「お祭り騒ぎ」という言葉があるように、ちょっと軽薄に聞こえるんですよね。
入場制限があって、物理的に観客を動員できないのに、相も変わらず宣伝を打って、満員御礼で大成功!というわけにもいかないのは、皆うすうす、わかってるじゃない?
それを証明するかのように、どの映画祭も動員数が伸び悩んでいるしさ。
だとしたら、もういっそのこと一人の観客に向けて一人の監督が映画を見せてはどうかというのが、「ただの人間」たるぼくが、現段階で考える解答のひとつなんだけど。

今一度、観客と監督、見る者と見られる者のベーシックな関係をといなおし、その真剣勝負を格闘技的な方向でパブリックへ開いてゆくことはできないか?

そんな上映形式を模索しているんです、今。
まだ妄想に近いんだけど。

その辺の話はいずれまた。







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