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「うお座時代」の終わりはキリスト教の終わり?&NYの神殿化

私はキリスト教徒ではありませんが、西洋の歴史上の出来事を調べるに連れ、「キリスト教の理解」なしでは歴史の上っ面をなぞっただけなのだと、最近になって本当に理解し始めました。(遅いですよね(苦笑)

ここで言う「キリスト教の理解」は、聖書を読んでいるとか、日曜日に教会に通っているとか、教義を信じているとかの意味ではないです。

キリスト教の始まりは、イエス・キリストの誕生からと言われていますが、どう見てもイエスはユダヤ教なんですよね。


誰かが新しい宗教を興して、イエス・キリストを今で言う広告塔にしたんだろうと思います。

多神教であったローマで、ソル・インヴィクタスを守り神としていた皇帝が、「政治的にキリスト教を国教にした有利だ」と信じるようになったのは、いったい何かあったのか。
考えると夜も眠れませんが(笑)


ソル・インヴィクタス




キリスト教と周期性


それは置いといて、
イエス・キリストが誕生したと言われる年を起点にした「西暦」の紀元1年から今年で2024年経ちました。
西洋占星術では「うお座の時代」が終わり「みずがめ座の時代」になる、あるいは「すでになった」と言う占星術師さんもいます。

ただ天文学的には、みずがめ座の時代まではあと数百年あると言われます。


春分点の移動路


上の記事に書いたように、現在の春分点は獣帯(黄道十二星座)のうお座の端にあります。
まもなく春分点はみずがめ座に移動しますが、そのまもなくは数年のことではなく数百年かかるだろうと天文界隈では言われています。


地球は23.4度傾いており、その傾いた軸がコマのように回っている状態です。ぐるりと1回まわるのに25,920年かかります。
惑星ナビ:地球の歳差運動とは何?向きや周期は?


この25,920年を大きなワンサイクルとして考えたとき、黄道十二星座で割った数が2160年となり、これが「〇〇座時代」の根拠なのですが、そもそも十二宮の大きさ(広さ)は一定ではありません。
一番広いのは、おとめ座です。

ぶっちゃけ、2160年も〇〇座時代も概念なのですよね。


キリスト教に終わりが来るのか?

うお座の時代の終わりは、宗教の時代の終わり、とくにキリスト教の終わりという説があります。

この根拠は、春分点がうお座に移動したときが奇しくもイエス・キリストの誕生と重なり、うお座時代の間にキリスト教が繁栄したからということらしいです。
ですので、うお座時代が終わればキリスト教が終わるに違いない、終わってほしい、絶対に終わらせなければならない、と思う人たちの意識が反映されています。

地球上での物事には必ず終わりがあるので、キリスト教もいつか必ず終わるでしょう。


地球の歳差運動の周期25,920年を、象徴的な数字(3の3乗の最初である)「27」で割ると960(年)という数が出てきます。

960年は目安としてほぼ10世紀です。
これをワンサイクルとして、起・承・転・結で物事が推移していくと考えられます。

すると現在21世紀は、3サイクルの初めのほうです。


これをキリスト教にあてはめて考えてみると、
1回めのサイクルでは
「起」
イエスの死後、使徒パウロたちがローマに初期キリスト教を伝道し、ユダヤ人の追放と相まってキリスト教徒も迫害に巻き込まれました。

2世紀にはギリシャ哲学と融合し、「ロゴス・キリスト論」が形成されていきます。


「承」
313年、コンスタンティヌス大帝がキリスト教を公認し、395年にはテオドシウス1世がキリスト教をローマの国教にしました。
この前後、ペルシャのササン朝がローマ帝国領に侵攻しており、帝国内にゾロアスター教も広がり始めていました。

「転」
ローマ帝国の東西分割と民族移動の影響によって西ローマ帝国が衰退し、それによって再び多神教が再燃しました。
また東西教会の対立も起き、ラテン教会(西)はフランク王国に助けを求め、カール大帝の戴冠に繋がりました。

「結」
フランク王国の隆盛と共にラテン教会も権威を持ち、異教徒をキリスト教に改宗させ、イングランドのケルト系キリスト教を衰退させました。
しかし、カール大帝が亡くなったあとは、ゲルマン諸侯たちの抵抗が起きるようになりました。

また、ヴァイキングが内陸部を南下して、東ヨーロッパに国を作り東ローマ帝国の首都コンスタンティノープルとの交易が始まり、ロシアやウクライナに正教会が広がりました。


ラファエロによる「シャルルマーニュの戴冠式」


西ヨーロッパを統一しようとしたフランク王国とキリスト教の結びつきは、まぎれもなくキリスト教会(ラテン教会)のピークだったと思います。


宗教改革で分裂したキリスト教

2回目のサイクル
「起」
世俗化したキリスト教会を建て直そうと、クリュニー修道院から教会改革が起きました。
しかし、これは神聖ローマ皇帝との叙任権闘争につながりました。
偶像崇拝を禁じた東ローマ教会との決裂もありました。

フランク王国滅亡の後、各ゲルマン諸国の王たちとの丁々発止が続きましたが、ラテン教会は聖地を奪還する目的の「十字軍」(別の敵に目を向けさせた)のもとに王や貴族たちを従わせることに成功しました。
十字軍の本当の目的は、東ローマ教会を衰退させることだったんでしょう。

「承」
フランク王国に変わる西ヨーロッパの権威者となるハプスブルク家が台頭し、神聖ローマ皇帝とラテン教会の結びつきが強固になりました。
またイタリアではメディチ家が進出しルネサンスが起こり、メディチ家もまた教会の強力なスポンサーになりました。
「教会領」の拡大のため、教皇庁が積極的に領土戦争(例イタリア戦争)に参加し、戦争教皇という呼び名も生まれました。

「転」
15世紀に東ローマ帝国がオスマン帝国の侵攻によって滅亡し、イスラム教がヨーロッパに広がりました。

16世紀、教会大分裂(シスマ)が起きるなか、マルティン・ルターに代表されるカルヴァン派による宗教改革が西ヨーロッパ全域に広がり、ヨーロッパのキリスト教世界をカトリックとプロテスタントに二分する激しい宗教戦争に発展しました。
17世紀の三十年戦争に繋がります。

※イギリス宗教改革は、ちょっと毛色が違います。詳しくはまた。

ヨーロッパの宗教改革のさなか、日本でもクリスチャン弾圧や島原の乱が起きていたのは興味深いです。つまり、プロテスタントによるカトリック廃絶運動が飛び火したわけですね。


「結」
19世紀に神聖ローマ帝国が崩壊し、ローマ教皇領はナポレオン1世によって没収され、1861年のイタリア王国の成立で消滅しました。
1929年のラテラノ条約でバチカン市国(カトリック)が成立しましたが、象徴的な独立国家です。

プロテスタントは、次々と新しい教派が生まれました。
16世紀がプロテスタントの始まりとすれば、現在のプロテスタントは「承」から「転」じる時代です。



さらなる変化があるとすれば、すでに「起」きていると考えられます。
キリスト教圏でない日本では気づきにくいですが、近年、ヨーロッパではカトリック教会が連続して火事になったり、アメリカではプロテスタント教会が焼かれたりしているのも関係がある気がします。


もしかすると、3月のボルチモアのフランシス・スコット・キーの崩壊事故も偶然じゃないかもしれない。


①のサイクルではローマ帝国が2つ分かれ、②のサイクルではキリスト教が2つに分かれ、③サイクル目では何が分かれるのでしょう?


みずがめ座時代の象徴とは?

うお座時代からみずがめ座の時代に向かうときは、うお座を象徴する「双魚」をイメージするものが出て来るでしょう。


ミトラスに屠られた雄牛で次の「おひつじ座の時代」が始まったように、生贄の子羊で「うお座の時代」が始まったように。

しかし、漁師が魚をすなどるようなことではなさそう。
想像できる範囲を超えてくるでしょう。


なぜなら、次のみずがめ座の象徴は・・・頭に月桂樹の冠をつけた偉大なる人物が、かかえた大きな水瓶の中の液体をぶちまけて「ヒャッハー」と踊っているように見えるからです。

その水は「命の水」とも言われています。


イエスと弟子たちの最後の晩餐では、会場探しを弟子がイエスに尋ねると「通りにいる水瓶を運んでいる人に訊きなさい」とイエスは答えました。
ですので、水瓶おじさんを覚えておいてください。


死にそうな、あるいは死んでいた魚が命の水で生き返るのか?

どんな象徴で表現するのか?

私たちが生きてそれを見ることは出来ない「はず」ですが。


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知っている人は知っている情報ですが、一般的にはワケワカメな話でもあると思うので、念のため。

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