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家庭菜園でも、大量生産という呪いにかかっている

富士山麓に移住して、敷地内でハーブと自分達が食べる分の野菜を自然栽培をしています。自然栽培は移住前もやっていたので、今年で11年目です。

植物だけでなく動物も含めて私は育てることが好きなので、自然栽培も楽しんでいますが、ふと思うのですよね、いつもどこかで「たくさん」の言葉が頭を支配していることを。

たくさん作らなきゃ、たくさん植えなきゃ、たくさん実がならないと、たくさん収穫しなきゃ、たくさんたくさんたくさん。これって、大量生産の呪いだなあと思うのです。家庭菜園で自分達の分だけあればいいのに、そんなに強迫的になってどうするの?

それだけわたし達(の世代)は、大量生産大量消費がよいとされた時代を生き抜いてきたのだなと、あらためて思います。今の若い世代はちょっと違うかもしれませんけれども。
 

自然栽培というスタイルなので、余ったものは草マルチとして使ってしまったりしますので、廃棄するということはありませんが、大量に作って安く大量に売って、を繰り返しているうちに、わたし達は大事な日本人的宇宙観を棄ててしまったのかな。

と、自分の中の「たくさんたくさん」の呪いを感じて、そんなふうに思ったりします。

※自然栽培の細かな定義はここでは置いておきます。スタンスによって議論が巻き起こる分野でもあり、相手のあり方を批判や論破するようなケースもありますので、個人的にはそういう戦いの場は避けたいかな、と思って。

家庭菜園だしね、農薬不使用、肥料不使用、不耕起、草マルチで、というところは確実に実行しています。
 

えー、大量に収穫したので、ドライトマトにトランスフォーム中のミニトマトさん
 

今はそうではありませんが、前は野菜でも安くてたくさん入っているものをと思って買っていましたし、物がたくさんある、大きくて広いものがいい、それが豊かだという無意識の感覚がありましたしね。親世代が確実にそうでしたからね。

西洋化されて行って、いつのまにか自然は対岸のもの、わたし達に悪い影響を与えるもの、人間に支配されるべきもの、みたいな感覚がすごく強くなっていたことに気づいたときには、自分でも当時ものすごく衝撃的でした。
 
え?こどもの頃は、ちゃんと自分は自然の一部だったし、そのことを知っていたし、神さまだって精霊さんだっていつも一緒に遊んでいたのにって。
 

ちょっとスピ的な話をすると、これから生まれてくる子ども達は新人類、新地球型宇宙人でしょうから、たべるという行為をそれほどしなくてもよくなるかもしれません。

そして現人類のわたし達も、波動が上がるにつれて食べなくなっていくだろうと私は思っています。以前より小食の人達が増えている印象ですよね。

いま食糧危機が叫ばれていますし、それでなにか恐怖を感じることもあるかもしれませんが、意外に食べない人が増えていって、地球の環境もよくなっていくかも。なーんて、思ったり思わなかったり。
 

ちょっと脱線してしまいましたが、自然栽培をする上で、この「たくさんたくさん」の呪いから解放されようと思います。そして、自然栽培のプロセスそのものを楽しむ、命を愛でる、そして自分も心からそれを楽しむ。
 
そこにフォーカスしつつ、自給ライフの道を進んでみようかなと。全て自給自足しなくてもいいんですよ。わが家は家庭菜園なので、それは面積的に難しいですから。できる範囲で。
 
出来る範囲で自給自足しつつ、循環する自然の中でその構成員として生きる。それをのんびり実践していきましょう!
 
私はこの世界を愛でるために、自然栽培をしている。そこがミソです!

そしてそれが、地球のどこかの何かに、そして宇宙全体のちょっとしたお役に立てたらいいな。そのくらいのゆるい感じです。
 

 

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