見出し画像

映画「夢みる小学校」から見える、日本の公教育の限界

今から20年近く前。

実は、ぼくの息子は「きのくに子どもの村学園」という日本におけるオルタナティブ教育の代表例と言ってもいいくらいの、一風どころか、めちゃくちゃ変わってて、かなりとんがってる小・中学校に通っていた。(通ってというか、寮生活が主だった)

その学園にはいくつか姉妹校があり、今年、関東圏から近い山梨県にある「南アルプス子どもの村学園」という学校が舞台となる「夢みる小学校」と題したドキュメンタリー映画が公開された。

きのくに子どもの村学園の教育理念とその手法

きのくに子どもの村学園とその姉妹校では、子どもの自主性や個性を重んじる教育を行っており、その教育理念は、自己決定、個性、体験の尊重であり、教師も児童生徒も同じ一票を持つミーティングをとても大切にしている。

一年を通して取り組むプロジェクトテーマを子どもたち自らが(時間をかけて)考え、企画、実践し、年度の最後にはレポート集としてクラスごとに出版する。

テストもないし、成績表というものもない。
テストは教師が生徒の学力を把握するために簡易に行われることもあるが、それの結果で進路が左右されるものではない。
それから、ついでにいうと「チャイム」もない。
時計があれば、時間がわかるし、必要な時間に必要な場所に、子どもが集まるからだそうだ。
とても変わった学校という印象を持たれると思うが、ここ数年、ぼくがお世話になっている北欧デンマークの学校教育の現場と、基本的な考え方の差はどこにも見当たらない。
ぼくらが森の教育プロジェクトでお世話になっている、nordstjerneskolenにも実は、テストやチャイムがない。

北欧での学校では、この学園と同じように、子どもが主体であるという考え方が当たり前だ。

実際に先生方からは、「学校は子どもにとって緊張する場であってはならない」という言葉をたくさん聞いた。

子どもたちどころか、先生方も学校が好きであり、学ぶことも、教えることも好き。
それが学校に関わる人たち、大人も子どもも持つ、あたりまえの感情のようである。

デンマークの学校職員は残業なんか滅多にしないし、彼らは友人や恋人、家族と過ごす大切な時間と仕事をちゃんと分けている。
そしてそんな事実を、日本の教育現場の先生方は、殆ど知らないのではないだろうか。

日本の教育現場の閉塞感

翻って日本の教育現場はどうだろうか?

ぼくは実際に、一般的に言うところの教育現場の人間ではない、つまり学校関係者ではないので、この判断が正しいのかどうかはわからない。
ただ、多くの教育者の生の声、子どもたちから漏れ聞こえる学校の様子、知人、友人からの情報、SNSなどで散見される教育現場の話を総合して考えてみても、それなりの閉塞感がそこに存在するようにしか思えない。

文科省から個性を重んじ、柔軟性を持ち、世の中のあらゆる変化に対応できる子どもを育てましょうという方針が出されていても、現場では画一化された対応しかできず、子どもたちにも横並びや我慢を強いている。

本当ならば、日本中の公立学校でも、多様性のある教育を目指し、その一つとして、この映画の題材になった「子どもの村学園」のような教育手法が取り上げられて良いようなものだが、開校から30年が経過しているが、ぼくが関わってた20年前から未だなお、世の中におけるこうした教育手法への理解が「一般的に」進んでいるとは思えない。

リンクにある映画のレビューに書かれている感想を読むと、とても感銘を受けたと書かれているものが多いが、そういう反応は、この学校に対する、もはや決まりごとのような、言わば「デフォルト」的反応で、それは20年前とまったく変わっていない。

いつまで経っても、この国にとって、子どもがいちばん大切だという考えについて、現場の理解と実践が進んでいないということを表しているように、当時、当事者の一人だった僕は感じる。

いつまで経っても、新しい取り組みを現場が取り入れていけない事実。
子どもにとって生活時間の大部分を占める「学校」が子どもにとって魅力のない場所になりつつあり、実際に学校嫌いの子どもが増えている現状などから見えること、それは彼らを取り巻く「魅力ある大人」の減少そのものであり、日本の教育界の「思考停止」の実例の一つ、いや、そのものではないかと言うことだ。

とまあ、こういうことを職業教育者ではないぼくが書くと、あっちこっちから「知ったようにぬかすな」と批判されそうではあるが、そもそもぼくは、教育は教育者だけの特権ではないと考えているので、そのあたりは気にせず、意見を続けることにする。

日本の教育にある閉塞感という大きな壁。
それらを根底から覆せる可能性を持った、例えば、きのくに子どもの村学園などが取り組んでいる新しい教育のあり方は、この国では、まだ「私学」という経済力のない子達には受けられない環境しかない。
これは国や、教育関係者だけでなく、親も周囲の大人にも大きな責任があると考える。

自由な教育で大丈夫なのかという馬鹿げた不安

「こんな教育を受けた子が将来、社会に適応するのか?」
また、
「このような教育を受けた子は、やっぱり素晴らしい子どもに育つの?」
などという質問もよく受けました。

そんな質問に対して、親だったぼくは、いつもこう答えるようにしていた。

「いいえ、ごく普通の子どもたちです。
ただ、彼らは自分の意見をちゃんと言うし、人の意見もちゃんと聞く。周りと上手く付き合っていけるコミュニケーションスキルの優れた子たちです。特別な子になるのかどうかは、ぼくらが決めるのではなくて、彼らが決めますので、すごいかどうかなんてわかりません。
でも、本質的にはとても幸せそうな子たちだと思います」
と。

20年近く前、その学校で全身全霊で必死に遊んでいた息子は、今や大人になったが、親から見て人様に誇れるほど立派になっているとも思えない。
しかし、とても思いやりのある優しい人間になったと思っている。

それが、この教育を受けたからなのか、もっと違う要因があるのか実際には、それはよくわからないが、彼が子ども時代を、多くの友人達と精一杯楽しんだことだけは確かなのである。
子どもたちだけの寮生活を経験できたことも、彼のその後の人生にとって、良い経験になったり、なんらかの糧になったことは間違いない。

息子が卒業後、ぼく自身が関わるウィラースクールやCYCLE SEEDSの活動における基本的な理念や、子どもたちへの関わり方などの実践方法は、この学園での生活体験が基盤となり多くの経験とともに構築されている。

子どもたち自身に任せてみる。
大人は待ってみる。
同じ土俵で対等に対峙する。
そして、大人としての立場から精一杯、彼らを愛する。

日本中の子どもたちが、自身が愛されていることを感じ、安心して自分の意見をしっかり主張し、それがちゃんと認められる世の中になれば、きっと未来は明るい。

「夢みる小学校」というタイトルは、子どもたちが夢を見ているのではなくて、大人が見ている夢にしかなっていない現状を憂いでいるということを皮肉っているようにも思える。

◯映画「夢みる小学校」公式サイト

◯映画のレビュー


この記事が参加している募集

子ども向け自転車教室 ウィーラースクールジャパン代表 悩めるイカした50代のおっさんです。