心が女ってわけではないのです(性自認とは何か)
シスジェンダー&ヘテロセクシャルの人によく、性自認が女=心が女・・のように変換されてしまうので、ちょっと誤解を解いておきたい。
心が女性のMtF当事者は確かにいるだろうし、心が男性のFtM当事者も確かにいると思うけれど、当事者全員がそうなのではないよということを伝えたい。
心が男性のシス女性も、心が女性のシス男性もいると思うし。
こういうやつもいるよ!・・ということで理解を深めて頂ければ嬉しいです。
さて、性同一性(=だいたい性自認)については、以下のような但し書きがある。
「心の性」という曖昧な表現
一般に「心の性」という説明や、また「心は男性・女性」との表現はよく使われるが、「心」という語は意味内容が極めて広く抽象的であるため、他のさまざまな要素をも取り込んで混同を生じやすく、かえって理解の妨げにもなり得る。
・・「心の性」「心は男性・女性」という表現は、一定のわかりやすさや言いやすさを優先してしばしば用いられている。ただ、あくまで gender identity という語の便宜的で平易な言い換えであることに留意を要する。
暗に、性自認と心の性は必ずしも一致しない、または、性自認と心の性は定義・意味合いが異なると言っている。
ここで言及している「心の性」とは何だろうか?
私なりの解釈では「社会的に意味付けられた、性別ごとに当人以外の周囲から期待されている典型的な性質」のことだと思っている。
前回書いた「性的指向が男性に向かう(MtFの場合)」というのは典型的なものだけれど、その他にも、その性別に典型的な所作・行動様式というものがあると思う。
たとえばMtFだと、口調や言葉使いが女性っぽい、動作がナヨっている、足を閉じて座る、やや内股で歩く、身につけているものや持ち物の色使いが女性寄り、やたら鏡見る、三歩後ろを歩く・・など。
これは、メディア露出する当事者の著名人が増えていく(そのこと自体を悪いとは思っていないけれど)中で、非当事者に刷り込まれてしまったステレオタイプだろう。
それで、当事者は大半の非当事者から、暗に行動様式がステレオタイプな女性像・男性像に近かったりそのものだったりすることを期待されているように思える。
もちろんメイクしたいとかキレイになりたいとか、あるいは前述のような女性っぽい所作・行動様式をある程度は身につけたい・身につけているというのはあるけれど。
でも、一人の当事者としての見解からすると、むしろ逆の場合も多いのではないかと思う。
私の場合は、元々そのような行動様式で生きてきたわけではないし、セクシャルマイノリティーのコミュニティーの外では、ことさら意識的に男性の行動様式を取ったりして、周囲に察知されないようにずっと慎重に振る舞ってきたので、いざ実際にカミングアウトしたときに少し驚かれたりする理由のひとつなのではないかと思う。
なので「心の性」というのが曖昧な表現だという主張にはかなり同調している。
では、性自認とは何なのか?
「自認」というのは言葉どおり「自分で認識・認知する」ということだけれど、どういうことで自認するのかを説明すればよいだろうか。
私の感覚でいうと、生物学的に反対の性別の身体(つまり今持っている身体)に対する違和感・嫌悪感と、生物学的に同じと思う性別の身体(変化していく身体)に対してのフィット感かなと。
MtFだと、前者が男性の身体で、後者が女性の身体になる。
私の場合は具体的には、胸が無いとか、くびれが無いとか、下半身のシルエットがおかしいとか、全体的に骨骨しいとか、髭があるとか、肩まわりがややゴツいとか・・etc
それらのひとつひとつに違和感・嫌悪感を感じるとともに、そのうちの幾つかが少しでも解消に向かうとその違和感・嫌悪感が和らぐという感覚。
これで伝わるだろうか?
なかなか非当事者には体感してもらうのが難しいと思うので説明が難しい。
多分、大半の非当事者は、後者のフィット感というのは体感することはあるかもしれないけれど、前者の違和感・嫌悪感というのを体感することが無いのではないかと思われる。(どうなんだろう?)
あるいは、普段から身体のことなんて気にならなくて生きているのだろうか?
なので、性自認=女という話については、元から「女心」の話をしているつもりはなくて、身体の話だと思っている。(身体が違うって話)
心と性自認と身体は必ずしも片方の性別にまとまることではなく、まったく独立して成立するものだというのが私の感じていることかな。
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