見出し画像

依存先が1つになっていた。

3/9の訪看の時だった。
いつもの訪看さんだと思って玄関のドアを開けると、いつもとは違う訪看さんの姿が…。

あれ、いつもの訪看さんじゃない…。その途端に涙が溢れて止まらなかった。何も話す気になれなかったし、なんなら早く帰ってほしいくらいだった。

その日から数日間、頭の中は"なんで〇〇さんが来てくれなかったの…?"って気持ちでいっぱいだった。

いつもと違う訪看さんがたまたま来ただけ。
みんなからしたら、それだけの事って思うかもしれない。でも私にとっては大きな問題だった。

その日から体調が優れる事はなく、激しい鬱の波に飲み込まれて、深夜に病院に電話したり、歩道橋から飛び降りる事も考えるくらいだった。
なんで、なんで、なんで…。
そればかりが頭の中を駆け巡っては私のメンタルをぼろぼろにしていた。

それに、自意識過剰なのかもしれないが、いつもの訪看さんもきっと私の訪問に来れなかった事に対して何か思ってる事があるんじゃないかって。
そんな気がしてならなくて、それも不調の原因になっていた。

数日間、ずっとうつ状態が続いてたある日、私はもしかして…とある事を思った。

私、いつのまにかその訪看さんに依存してたんじゃないかって。いつも親身に寄り添ってくれて、でも時には厳しく私に向き合ってくれて、そんな訪看さんの姿に徐々に心を開いていった私は、程よい信頼関係を通り越して依存に陥ってたんだと思う。

いつもの訪看さんに試し行動はしなかったものの、精神的にかなり依存していたから、いつもと違う訪看さんが来た時に不調に陥ったんだと思う。

次の週もそうだった。今度こそは…!と思って玄関のドアを開けたがやはり、いつもの訪看さんの姿はなかった。泣きたくて泣きたくて仕方なかったが、初めましての訪看さんが来てた事もあり、泣くのは必死に堪えていた。

私にはとある不安が芽生えた。
このままいつもの訪看さんが来なかったらどうしよう。初めましての訪看さんが毎回来るようになったらどうしよう。2週連続で来てる訪看さんが毎回来るようになったらどうしよう。と。

別に、他の訪看さんに不満があるわけじゃない。
ただ、いつもの訪看さんに依存してしまったからこそ他の訪看さんを私の中で受け入れる事ができないのだ。

毎回違う訪看さんが来るなら、最初から、いや、いつもの訪看さんに依存する前にそうしてほしかった。それが今の私の本音。

来週こそはいつもの訪看さんが来てくれるだろうか。

今日も不調だったけれど、いつもの訪看さんじゃなかったから何も話せなかった。
ただただ辛い時間に耐えるしかなかった。

これもきっと境界性パーソナリティー障害の症状なんだと思う。"依存してしまう事"は自立の妨げにもなるし、私自身がこれから先も向き合っていかなきゃいけない課題。

依存先が増えてると思ってたけど、実際のところ依存してたのはいつもの訪看さん1人だけだった事にようやく気がついた。1人の人だけに依存するのは良くない。

人に依存しないために私に今なにができるのか、改めて考えさせられる機会にもなった。

闘病、これからも頑張ります。

この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?