掌編・短編集。
もう来ないで、と言われたとき、どうして僕は抗う言葉をなにひとつ言えなかったのだろう。閉じた玄関ドアは鉄のような音を立てて、彼女の世界から僕をしめだした。しばらく僕は黒い玄関をうつろに見つめて——実際は玄関ドアなど見てやいなかった。彼女の顔、僕を心底けがらわしいと厭う表情を、自傷行為のように繰り返しまなうらに描いた。 それからどうやって自分が家にたどりつけたのか、思いだせない。ただ、温かい夜がやけに暗く、黒い海の表面を歩いているような感覚がした。玄関で靴を脱ごうとしたら
十歳も年下の男の子と遊んでいる、と母が聞いたら、はしたない、と言うだろうか。遊んでいるとはいえ、世の人が想像するような、淫らな関係ではない。彼の最寄り駅で待ち合わせて、一緒にハンバーガーやパスタを食べて、公園で最近読んだ本の話をして――、それで終了。はじめは金銭のやりとりがあったが、いずれ陽はそれを拒むようになった。「なんか、これ負担」わたしが差し出した一万円札を返し、ジーンズのポケットに手を入れてイアフォンを取り出した。 「でも、なんで希奈さんは俺を買おうとしたの?」
その日の夜の歩道橋は、夏の雨に濡れてちらちらと光っていて、手をかけた手すりは生温かく湿って嫌な感じがした。下に流れる車を見るのも臆病風に吹かれそうで、僕は代わりに空を見上げた。しろっぽい夜のなかから、流星のような雨が僕の顔を打った。息苦しさで、僕は喉が渇いたような痛みを感じ、雨を呑み込むように口をあーっと大きく開けた。 夜なんか越えられねぇよ。 ひとり呟く僕の傍を、誰も通る人はいない。途中まで差していた傘は、足もとで転がり、傘の柄が僕の脚を突く。もちろん、僕は傘を拾いあ
講義が退屈だと感じると、僕らはいつもA棟の裏で煙草を吸っていた。煙草がうまかったわけでもなく、そうすれば話題がなくて手持ち無沙汰な状態になっても、一緒にいる理由があると思ったからだ。直也も同じように、考えていたのかはわからない。直也は会話を繋げる努力をいつもしなかった。 「この間読んだ小説、クソつまんなかった」 そう愚痴を吐くために煙草を口から離すと、僕のスラックスの膝に燃え滓が落ちた。 「何読んだの?」 「高校生が書いた小説。名門校の女子高校生が」 直也は煙草の煙を吐きな
エッセイ
じつは4月末はわたしの母の誕生日でした。いつもなら、高価ではなくてもプレゼントを贈っていたし、それが当然の(と言うのは変ですね)イベントでした。でも、今年は祝いませんでした。きっかけはもちろんあります。その前の週に母の叱責で、衝動的に人生を終わらせたいと行動に移そうとしました。幸い、父が止めてくれたので、最悪の状態は免れましたが。あとで訪問看護師さんや主治医の先生に経緯を説明したのです。そしたら、ふたりとも母の(おそらく)理不尽な言動にたいへん驚いていました……。 看護師さ
昨年末に薬調整してから、夕方から夜にかけてのひどい落ち込みは減ったものの、またここ数日うつ症状がでてしまいました。日中にうつ感がひどかったので訪問看護ステーションに電話相談をしまして「何か気分が紛れることをしてみては?」と言われました。ぼーっとする頭でいくつか考え、ポッキーを食べたり呟きアプリで呟いたりしていたんですが、noteに記事を書くのもひとつの気分転換、吐き出し効果になるかなと思い、今これを書いています。 ここ数日に発生したうつ感はとくに引き金となるものはなく。勉強
わたしは数字を覚えるのがとくに苦手なのですが、おそらく十年ぶりにTOEIC試験を受けてきました。およそらく十年ぶり。 今は訳あって休職中で、はじめは体調がよろしくなかったのですが、少しずつ気分が上向いていったため、(あらかじめ申し込んでおいた)TOEIC試験に向けて勉強することができました。 でも気分が上向いたときにはもう試験まで1週間ちょっと。その間、必死に問題集を解きまくり(およそ平均一日50ページ以上)、そんな付け焼刃で頭に叩きこめるわけもなく、絶望的に英語ができな
わたしは毎日夢を見ます。いつもは汚いトイレの夢なんですが(トイレから水が漏れている)、たまに仲たがいして絶縁した友人、元恋人がでてきたりします。 でも、夢のなかではわたしたちの問題が解決され、彼らに許されている。わたしが安心すると、その夢から覚めます。目が覚めた瞬間、なんともいえない寂しさが残ります。 結局のところ、わたしは寂しいんですよね。本当はみんなと仲良くなりたいと思ってもうまくできないから。 〇 今日はメンタルの病院でした。母とのことがトリガーとなって、今まで
拙い詩の数々
「Stranger」 違う時刻の電車に乗らなきゃいけない 君らの姿に出会うから どうしたら君を感動させられるのだろう 光源氏に聞いたけど どれも僕に不釣り合いだからと 逃げられてしまったよ 傷ついていないよ いやちょっと泣いたけど 僕の夢のなかで出てくる君は 金色の雨のなか舞う妖精だった 君の夢のなかに出てくる僕は 電柱に隠れている影の役 どうしたら君をときめかせられるのだろう シェイクスピアで検索するけど どれも僕の口から言えないよ きっと迷惑でしょ 君の彼が古い
今日も特別でない日が終わった 一日に点数なんてつけたくない 退屈な日に評価なんていらないだろ 僕らは反抗的なわけではないです ただ、変化を嫌うだけ ああ、神様を信じられたら楽だろうな 考える力を手放して 奇跡を信じて毎日を過ごす ああ、夢を描けたら楽しいだろうな 現実を見る目を曇らして 奇跡を目指して毎日を生きる でも冷たい時代に生まれたから 僕らは退屈な日々を受け入れます 今日も朝から街頭演説 表面的な善意を強く訴える でも僕たちには届きません 投票はしません 違う時
「星が月を追いかけるように」 朝目が覚めると カーテンの下が光る 晴れた日なら君に会えると 僕は安心するんだ あれから夜の星を いくつもの星を 僕は覚えて そのどこかに君はいるのだと 信じて 信じて 祈りのように もし君があの夜 僕に電話をしたのなら 苦しいと ひと言でも言ってくれたのなら 言葉を尽くして 君にここにいてほしいと 伝えただろう たとえ無力に終わったとしても 夜が終わるのが怖いんだ 君が見えなくなるのが 星が月を追いかけていたよ 家に帰ろうとしているように 夜
君は変わらないでいてね その約束は守れなかったよ 冷たい街で 変わらないでいられる人がどこにいるの お母さんにも友だちにも伝わらない言葉 でも伝わると思っていた だから君に話したのに また絶望を味わったよ 比喩を探そうとしないで 情景を描こうとしないで 君の言葉が嘘のように感じる どの人との別れも 泣かずに過ごせなかったわたしが 今では泣き場所を選べるようになったよ でも今でも簡単にはいかないんだ 心を欺くきれいなものが見えないんだ 春のような時代に わたしは一番不幸だ
読んだ本の紹介です。海外文学、ときどき日本文学。
プロットなし、一発本番でただひたすら書く——この方法でわたしは長い間小説を書いていました。きっとそれは(というか確実に)、構想を練ったりあらかじめ叩き台を作ることが苦手だったから。 もちろん、事前に骨格を作らず、思考の流れを追うように執筆する作家さんも少なくはないと思います。でも、わたしはそれでたぶん(というか確実に)、執筆で行き詰ってしまった。 そこで初心に返り勉強しようと思って手に取ったのが、フィルムアート社の「アウトラインから書く小説再入門」。いくつか取り入れそうだ
(私がトルストイ派ということもあり)フョードル・ドストエフスキーをここ数年避けてきたのですが、つい先ほどドストエフスキーの処女作「貧しき人々」を読了しました。想像以上に「とてもよかった……!」。なので、簡単な解説と感想を共有したいと思います。 ※ちなみに筆者が読んだのは、光文社(安岡治子さんの訳です)の本です。 この作品の内容を説明すると、 貧しく身よりもいない不幸な少女ワーレンカ(推定17歳くらい)と、冴えない中年男性・小役人のマカールが、お互いの出来事や心境を手紙で
4月の読書を振り返るのはまだ早いですが、最近読んだ本の紹介をします。 ※主に海外の文学作品です。 【「断絶」/リン・マー (訳:藤井光)/白水社】2023年4月頭に読んだのですが、できれば2020年以前に読んでおきたかったなあ、と思ったのがこの本。 (とはいえ、白水社の出版年月日が2021年3月みたいなので、原書でないと無理ですね……) 簡潔に言うと、パンデミックが起こるSF小説。この小説の発表は2018年なのですが、その設定や状況が奇しくもコロナと重なる部分があり、物
100枚ちょっとの小説を置いています。某賞の落選作です。
連載していた「十三月の祈り」を終えたので、目次一覧を作りました。クリックして飛べると思います。 ・十三月の祈り ep.1 ・十三月の祈り ep.2 ・十三月の祈り ep.3 ・十三月の祈り ep.4 ・十三月の祈り ep.5 ・十三月の祈り ep.6 ・十三月の祈り ep.7 ・十三月の祈り ep.8 ・十三月の祈り ep.9 ・十三月の祈り ep.10 ・十三月の祈り ep.11 ・十三月の祈り ep.12 ・十三月の祈り ep.13 ・十三月の
「わー、申し訳ありません。不注意でした」 店員が屈み込んで、ノートを拾い上げる。彼が指先で一生懸命、紙についた自分の靴痕を消そうとするので、「触らないでください」と反射的に強く言ってしまった。そうですよね、申し訳ありません。何度も頭を下げる店員が、わたしと最初に出会った頃のあなたと同じくらいの年齢に思えた。思えた瞬間、彼を謝らせていることに申し訳なく感じた。 ――答え? ――ほんとうにそう思っているのなら、永遠に僕を救うことはできないよ。 心のなかであなたの
窓の外で風が唸る音がした。食事を終えるとあなたは立ち上がり、カーテンを少しだけ引いてそこから窓の外を見ようとした。隣の庭を見るのだと思ったから、暗いから、と言い、そう言ったのと同時に、雨が降り出しているよ、と窓から振り向いたあなたは眉を下げて言った。少し笑みを浮かばせたその顔が、余計に悲しそうだった。申し訳ないけど、お水くれる? あなたに頼まれて、わたしはマグに水を注いで渡した。あなたは、コートのポケットから小さなポリ袋に入れた錠剤を取り出して口に入れ、水を流し入れた。わた
あなたと最後に会った夜のことを、何度も思い出した。もし、あのときわたしがあなたを救えたのなら――そんなことを最初は思ったりしたけど、次第にそう考えるのをやめた。 ――それは、君の勝手な感傷だよ。僕は誰かに救われたかったわけでもない、誰かによって救われるとも思っていない。わかっているじゃない、僕がいなくなった時点でもう君は、わかっていたはずだ。 あの日にたとえどんな言葉を使って引き留めようとも、あなたを変えられないということを、あなたの身体に棲む他者からあなたを救えないと