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【連載小説】十三月の祈り ep.12

 あなたと最後に会った夜のことを、何度も思い出した。もし、あのときわたしがあなたを救えたのなら――そんなことを最初は思ったりしたけど、次第にそう考えるのをやめた。
 ――それは、君の勝手な感傷だよ。僕は誰かに救われたかったわけでもない、誰かによって救われるとも思っていない。わかっているじゃない、僕がいなくなった時点でもう君は、わかっていたはずだ。
 あの日にたとえどんな言葉を使って引き留めようとも、あなたを変えられないということを、あなたの身体に棲む他者からあなたを救えないということを、わたしはわかっていた。救えたのなら、なんて思うことは無意味だし、偽善にしかならないのだ。
 あの日、あの冬の夜。会社帰りのわたしは最寄り駅に着き駅構内から外へと出た。ペデストリアンデッキにある、一本のツリーが電飾を身体に絡ませて、青白く明滅していた。いつもより人通りが多い、と感じたあと、アコースティックギターで何かを調整するように数回弦を弾く音がした。前方に目をやると、黒いダウンを着て、ギターを抱えている二十代前半くらいの小柄な男性が立っていた。もう一曲だけ、つき合ってください。目の前のスタンドマイクを支えるように手を添えて、そう観客に言ったあと、赤く染めた頭を軽く振って、ギターを鳴らした。鼻声がかった、柔らかな声で最初のフレーズを歌い出すと、通りかかった会社員の男性は一瞬足を止めた。だけど、また彼の進む道へと歩き出した。無名のミュージシャンは、困難があっても諦めきれない夢がある、そのために僕は生きてきた、誰かが僕を待っている気がして走り続けた、でも現実には壁があった、僕にとって現実は打ち砕くことが不可能な敵だった、僕はその敵と戦い続けなければならない、僕の言葉を待っている人たちのために、と歌で訴えていた。わたしはその場から立ち去ろうとしたけど、観客のなかにあなたに似た姿のひとがいるのに気づいた。それはあなたで、あなたは観客の群れから少し離れた場所に立ち、何の感動も表れない顔で、ただミュージシャンの歌を聴いているようだった。心のなかであなたの名前を呼ぶと、あなたがわたしのほうに振り向いた。その瞬間、息が止まった。

「今日、奥さんが夜勤の日なんだ。ひとりで飯食うのがなんだか気が進まなくて、ちょっと外に出てみた。そしたら、彼が演奏していてさ」
 そうわたしに説明するあなたの唇から、シルクみたいな息が洩れた。夜勤って、何の仕事をしているんですか? 問いかけたら、仕事? そうだね、人を助ける仕事だよ、と曖昧な返答をして、笑った。それは何かを皮肉るときの笑いに似ていた。わたしは不用意なことを言ってしまった、と思い、顔を俯けて頬の内側の肉を噛んだ。自分の夢にひたむきになるっていいね、とあなたは演奏が終盤に差し掛かっているミュージシャンを指さし、言った。でも、それはあなたの本音ではなく、皮肉だったのかもしれない。それからあなたは、「明日香さんの子どもの頃の夢って何だった?」とわたしに聞いた。すぐに答えることができず、とっさに「雨が降ってくること」と見当違いな答えを言ってしまった。雨? あなたは聞き返して、真面目な顔で理由を問いかけた。冗談です、とわたしは言って苦笑いを浮かべながら、「吉原さんの夢は?」と話を向けた。すると、何かに傷ついたようにあなたの顔が暗くなった。顔を背けながらあなたは、「もう覚えていないな。あったのかもわからない」と呟いた。
 それからしばらくわたしたちの間から言葉が途絶えた。
 駅構内の出入り口につけられてある、時計の針が十九時を差したのと同時に、ギターを弾いていた男のひとは最後の挨拶をした。観客のなかには男のひとの話を聞かずに、すぐに去っていくひとたちもいた。演奏に聴き入っていたわけでもないのに、あなたはその場から動こうとはしなかった。拍手もせず、ただ居場所がないひとがするように、コートのポケットに手を入れてそこに佇んでいた。
 ずっとここにいるの、寒くないですか? 
 あなたがその場に留まる理由がわからず、わたしは問いかけた。そうだね、建物のなかに入っているよ。そうあなたが言って背を向けたとき、わたしはほんとうにあなたが居場所を失ってしまった、そしてわたしがあなたをこの場所から追い出したような気持ちになった。だからか反射的にあなたを呼び止めた。あなたが振り向いたとき、いつものあなたより幼く見えて、かわいそうという気持ちが芽生えた。でも、そのかわいそう、はわたしが抑えていたエゴを掻き立てるものだった。
 
 たぶん散らかっていると思うので、ごめんなさい。鞄から部屋の鍵を探しながら、緊張のせいで震える声であなたに謝った。たぶん? とあなたはわたしの最初の言葉をとり、たぶん、くらいなら別に構わないよ、と笑った。鍵を差し入れてから、ほんとうに散らかっているかもしれないんで、と断りを入れて先になかに入り、ベッドの上に広がった衣類や、テーブルの上に並べた化粧品と鏡やティッシュ、机に放置したままの封筒やチラシを片づけてから、あなたを部屋に招き入れた。お邪魔します、と冗談みたいに礼儀正しくあなたは言って靴を脱いだ。
 狭い部屋ですけど、空いているところに座ってください。
 じゃあ、失礼します。とあなたはわたしのベッドに腰を下ろして、コートを脱いだ。暖房をかけても、部屋はなかなか温まらず、寒くてごめんなさい、とまたわたしはあなたに謝った。別にいいよ、うちん家も帰ったらこれくらいの温度だよ。わたしをフォローするように言ったあなたの言葉で、あなたが帰るときにはいつも由紀さんはいないのだ、ということを察した。
 冷蔵庫を開けたら、卵と今朝食べた高菜漬けがあるだけで、あとは冷凍庫にひとり分のご飯しかないことに気づいた。ひとりでの生活に慣れると、毎日自炊するのに疲れ、夕飯はインスタントやレトルトに頼ることが多い。キッチンの下の戸棚を開けると、改めて恥ずかしいと感じるほど、インスタントラーメンやレトルト食品のストックがあった。あなたを部屋に招き入れることがわかっていたら、もっとちゃんとしたご飯をつくることができたのに。しばらく戸棚の前にしゃがみこんだまま途方に暮れていると、「何しているの?」とあなたが背後から覗きこんできた。わたしは、ご飯がなくて……、と言葉に詰まり、逃げるようにあなたの傍から離れた。あるじゃん。あなたはインスタントラーメンの袋をつまみ、これ、一緒に食べようよ、とわたしの顔の前でその袋を揺らしてみせた。
 向かい合わせになって座り、ふたりでラーメンを入れた鍋をつついた。お互い何も言葉を交わさなかったので、自分の嚥下する音さえも気になってしかたなかった。……テレビ、あれば良かったですね。何か、音楽でもかけましょうか。そう提案すると、いいね、と言いながら自分のiPhoneを操作し、あなたはiPhoneをテーブルの上に置いて曲を流した。ビリー・アイリッシュ、好きなんですか? 音楽が流れても会話が途絶えるのが怖くて、なんとか話題を振った。奥さんがよく歌うから、自分も聴くようになったんだ。目を伏せたまま静かに言うと、あなたはきれいな箸使いで麺を啜った。わたしは喉に唐辛子が張りつき、咳こんだ。

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