見出し画像

給料は毎年上がるとは限らない――「人生の正午」と成長神話|ちゅん

異なるアタリマエ

創業140年を超える新聞社からビズリーチに移って、しばらくして思ったことがあります。

「そうか、給料が毎年上がるのって、当たり前じゃないんだな」

細かい話はしませんが前職には定期昇給があり、等級も経験年数との相関が実質的に強かったので、平均的な評価さえ得られれば給与は上がっていきました。

新卒から15年、そうした会社にいたので、いわゆるボーナスは別として「基本的に給料は上がるもの」という感覚がありました。

今思えば、いろんなところから石が飛んできそうな話です。
もちろん当時も、給料が上がらない、もしくは下がっている人が大勢いることは分かってはいました。

しかし当時の環境のせいか、「今日よりも明日、今年より来年はもっとよくなる」という根拠のない楽観の中に生きていたことは否めません。

転職をしたのは、40歳を迎えるころです。

心理学者のユング的に言うと「人生の正午」という時期です。人生を一日の太陽の運行になぞらえたもので、おおよそ寿命の半分が正午。太陽が昇っていく「午前」と違って、「午後」は日没に向けて日が暮れていく時期にあたります。

そんな時、転職を契機に、当たり前に思っていた「毎年の昇給」がなくなりました※1

予測してはいたのでショックはありませんでしたが、どこか寂しい気持ちがあったことを覚えています。心のどこかで、「給与の上昇」をよりどころにしていたのかもしれません。


※1 念のため明記しておきますが、ビズリーチでも人事評価があり、その結果に応じて昇降給があります。なので簡単にいえば「自分が昇給に値する評価を得なかった」というだけです。


昇給は「成長の対価」?

しかし「毎年の昇給」がなくなったことについて、「そりゃそうだよな」という納得感があったのも、噓ではありません。

新卒から5年くらいは、よちよち歩きではありつつ、経験すべてが新鮮で1年ごとに「できることは増えている」と実感できました。

しかし転職前の数年は正直、そうとは言えませんでした。経験を積んで仕事の幅が広がった面はあるとはいえ、「できること」がそんなに増えている感覚はありませんでした。鏡に映るのは髪が減り、しわも出てきた自分です。

自分がそれほど成長しているとは思えないのに上がっていく給料。実入りが増えるのはうれしくとも、「年功的に、長くいさえすれば収入が増える」という仕組みには、どこか組織に忠誠を誓わせるような、ざらっとした感覚を持っていました。

とかく成長が重要視される現代社会です。

ある面ではより高い報酬を得て、より多くのお金を使うことが期待されてもいます。

それに憧れる気持ちがゼロとはいいません。大学や会社の同期と比べ、年収や社会的地位でより「成長」していたいという気持ちが全くないとも言いません。

しかし「人生の太陽」が下る時期に入った今、それを競ってばかりでも仕方ないという思いもあります。

沈まない太陽はなく、年齢で伸びる能力もあれば、衰える部分もあります。
右肩上がり一本の人生が、誰にとっても望ましいものだとは限りません。それにこだわるのは、ただの執着である気もします。

アラフォーの転職を機に、そんなことを思うようになりました。一定の収入や立場が確保できているかどうかという観点はあると思いますが、それが担保されているなら、キャリアとは個人の生き方の問題だなと感じる今日この頃です。

「人生の午前の法則を人生の午後に引きずり込む人は、心の損害という代価を支払わなければならない」 ――カール・グスタフ・ユング


一定の年齢を迎え「人生の午後」に向き合った方のお話を紹介します。