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鼻うがい、量子、鎌倉ハイキング_m

はじめての鼻うがい

よい、よい、と聞いていた鼻うがいをついにしてみた。ハナノアの口から出すタイプのもの。恐る恐るやってみた。水を鼻から口に流すのは未知の感覚だ。たしかにこれ…よい! 鼻づまり、ノドの奥のねばねばがとれて、泣いた後のようなスッキリ感がある。

最初、うまく口のほうに流れて行かなかったけど、鼻に液体を押し込むときに、平気な顔をして、なんなら息を吸いますけど…くらいの感じで息を吸いぎみにする(吸い過ぎてはいけない)と、うまく口の方に入っていく。痛みはまったくない。

鼻うがいのおかげか、前週より少しましな一週間だった。

フランク・ウィルチェック『すべては量子でできている』

いちおうすべて目を通したのだけど、肝心なところがビタイチわからない。

私が興味をひかれているのは、「時空間は本質的には物質と変わらない」(p. 70)というアイデアだ。なにもない箱だと思っていた時空間は物質と同じような実体であり性質をもっている。反対に、私たちが物質だと思っているものは、細かくしていって素粒子になると「大きさや形」がなくなってしまう(p. 114)。「原子と虚空」という古いモデルは、いまでは「時空と性質」に置き換えられている。物質でできているわたしたち自身――見ようによっては――なにもない(ようにみえる)時空間と同じ、まさに同じ、そのものでできている。

著者が提案し実在が確認されたという「時間結晶」(p. 89 ※詳述は全くされない)、また、著者が若いころに聞いて心にやきついてしまったという「音響子(フォノン)=振動の粒子」(p. 126)は、同じ発想のヴァリエーションなのだろう(なにごとかの連続的な現象を「量子として見る」という発想が共通している)。
…と思うものの、数学はぜんぜんできないし、もう全く手も足も出ない。なんとかもう少しだけでも知りたいのだけど…この本にはこれ以上のくわしいことは出てこない。

ところで、この本の締めくくりの「相補性」についての著者のメッセージは、とってもいいなと思った。

あなたが答えを求めている問いが、あなたが使うべき概念を形づくる。同じ事柄を分析する、異なる、あるいは両立しない複数の方法のそれぞれが、有効な洞察を提供しうる。

フランク・ウィルチェック『すべては量子でできている』p. 284

補足すると、「相補性」というのは、波動関数において、粒子の位置と運動量を同時に知ることができないことをいう(位置を予測する式と、運動量を予測する式とは、別になっていて、一方の式ではもう一方の値を破壊する形でしか答えを導き出せないそう)。そして、このことは、実験において、侵襲的にしか観測ができないことに対応している(位置を正確に知ろうとすると、その粒子と相互作用することになり、位置がわからなくなる)。このように、(ある方法によって)観察することで、人は世界の構築に参加する(p. 276)。ここから、上の引用箇所につながる。

これは、十人十色、藪の中というような単純な相対主義ではない。真実はわからない、そんなものはない、とするのではなく(アインシュタインが警戒したのはそのようなネガティブな世界観だ)、問いないし観察方法とセットにすることで、どれもが真実の一側面である、というふうに、真実を豊富にしていくからだ。ポジティブなよきメッセージだと思う。

しまった、話がずれてしまった。ともかく、わからないところが多かったので、同じ著者の『物質のすべては光』を読み始めた(こちらを先に読むべきだったかもしれないな)。

11/19(土) わくわく鎌倉ハイキング

弟とハイキング。10時に北鎌倉へ。

行ったコース①

円覚寺は紅葉でにぎわっていた。
途中で北鎌倉古民家ミュージアムでやっていた「林アメリーのパッチワークとアジアの刺繍」に立ち寄る。弟は昨晩お腹をくだしてあまり眠れなかったとかでベンチで体力を温存するとのことだった。自由奔放なスザニ刺繍に惹かれる。

途中できな粉アイスクリームを食べたりお煎餅とリンゴを買ったりコーヒーを飲んだりした。誘惑が多い。

建長寺は500円かかるけど、半僧坊までの道が好きなので入った。行く人はぜひ半僧坊と富士見台と、できれば天園ハイキングコースとの合流点まで登ってほしい。短い時間で、見晴らしがいいところまで行けるから。由比ヶ浜と富士山、下には建長寺と鎌倉が見える。弟が家から持ってきた干し柿とミカンを食べた。

天園ハイキングコースは通らず、戻って亀ケ谷坂の切通を通る。この切通が好きで、もう一回通りたかった。急に影が深くなり、突然街中に自然が露出して、なんだかとても日本、という気がするのだ。この暗さが。弟は「ダンジョンみたい」と言っていた。鎌倉の切通みんな歩きたいな。

化粧坂を通る。化粧坂も好きだ。犬を連れたおじさんが登ってきて、犬がどこに足を置こうか迷っているのを「ほら、犬だろ」と言ってハイペースで登らせていた。犬にとってみれば化粧坂の段差は結構ある。

父が先日お風呂で倒れたそうだ。どうも熱いお風呂で意識が朦朧としたらしい。二人がかりでお風呂から出したとか。また入院することになった。弟は、父がセルフネグレクト気味だという。ああしたらこうしたら、ということを話していたら父に、「はいはい。あなた様はご立派ですね」と言われて、ショックだったという。母に、父にもう少し前向きになってもらうために、父に対してもう少し愛情表現をした方がいい(弟はユマニチュードの本を読んだのである)と言ったら、母は「私が病気で寝込んだときは平気の平左で遊びにいったくせに、今さら何を」とブチ切れたという。

私はその前の晩にみた、モンゴルのラクダのドキュメンタリーの話をした。冬、氷点下マイナス30度になるモンゴルには、ラクダがいるのだ。ラクダといったら昼は40度にもなる砂漠にいるのだと思っていた。ラクダのレジリエンスとロバストネスがすごい。

モンゴルの遊牧民たちはラクダは感情がある動物だと考えている。ラクダは難産になることが多く、そういう子がやっと生まれても、母親は苦しみをもたらしたその子を憎み、乳をあげようとしない。そういうときのために、遊牧民たちは歌を練習している。歌のうまい人をつれてくる。馬頭琴をつまびく。彼らは、母ラクダに触れながら、母ラクダのために歌う。それを聴いた母ラクダは涙を本当に流す。ラクダは泣けるのだ。そして子どもに乳を与えるようになる。モンゴルで遠い昔から繰り返し行われてきたことだ。

「だから、遊牧民に来てもらうしかないんじゃないの」と言ったら、弟は「何を言っているんだこいつは」という感じで呆れていた。

銭洗い弁天は銭を洗いたい亡者たちでごった返していた。ザルに小銭を入れて洗うという一大エンタメスポットなのだ。お札を入れている人もいた。本来、私はこういうのはぜひやりたいタイプなのであるが、行列ができていたので諦めて、みそ田楽と焼き餅を食べた。本当は鎌倉駅によってごはんタイムの予定だったが、のんびりしすぎてその時点で2時半くらいになっていた。弟は「しんどい」「足が棒のようだ」とばかり言っていて、富士見台でもあまり感動していないようだった。

大仏ハイキングコースはなかなかいいハイキングコースだった。すぐ下が街になっている尾根道を歩いていく。ちょっと天園コースと似ている。それから沼津アルプスも思いだす感じ。

歩いたコースその2

せっかくなので鎌倉の大仏を見に行く。うってかわって、そば屋やお土産屋の並ぶ「ザ・観光地」が近づいてくる。バスが何台も停まってにぎわっていた。

古写真で見つけた鎌倉の大仏。今とは灯籠の場所とかが違う。登ってる~!

鎌倉の大仏の後ろにまわって驚いた。背中に小さな窓がふたつ開いているのである。それが小さな羽みたいに見える。なんだろうこれは… ものすごくシュールだった。なにか、大仏さまのなかにたまったものを背中の窓から「解放」しているように見えた。

鎌倉の大仏を後ろから見たところ。背中に小窓が開いている。

本当は稲村ケ崎温泉(鎌倉唯一の温泉でモール泉!)まで歩くつもりだったけど、弟が疲れ切っているので、そば屋に入って(私:とろろそば、弟:きつねそば)江ノ電に乗った。海を見ているうちに日が暮れて、温泉に入って帰った。

余談だけど、弟によると、私の具合が悪いのはマグネシウム不足らしい。マグネシウム…にがりか…。 

モンゴルのひつじたちが元気なのは、ミネラルたっぷりの多種多様な野草を食べているからだ。一方、私たちが食べる肉も野菜も、「窒素・リン酸・カリ肥料」からできている。野菜の栄養素は実際に、半世紀前とくらべて半減している。

だから、弟はサプリメントを日常的に摂っているという。しかし、なんかな、「窒素・リン酸・カリ肥料」の世界に、さらに「サプリメントで補う」が付け加わるのはディストピア感がある。

まぁにがりは… 海由来だから良しとするか…。

11/20(日)は一日中糸紡ぎをしていた。羊関係のことは、また別の投稿で書きたい。

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