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情報にグラグラし過ぎず、個人個人が正しく不安になって考え動くための20の認識/行動指針200229

 世界はCOVID-19にかかわる様々なことで大変なことになっています。私は内科医なので、もちろん私が勤務する病院やその周辺地域に対してCOVID-19対策に関する具体的な発言やアクションを毎日行っています。一方で、私は感染症の専門家でもリスク・コミュニケーションの専門家でもないので、同アジェンダに対して公のメッセージはしていませんし今後もしないでしょう。「感染症から人の健康を守る」という強い信念を感じた岩田健太郎さんのメッセージや、それに感染症行政に責任を持つものとして誠実にリプライしていた高山義浩さんの発信したやりとりのテキストらはとても力強いものがあります。今回の一連の状況において、責任感を持つ人たちがそれぞれの責任感の中でメッセージを公に送ることはとても大切なことだと思います。翻って、私はコミュニケーションの専門家であり、臨床医であり、ここ数年は「“知る”ことによって人が不安を持つこと」に関する研究をしてきた人間です。その立場の者として、おそらくは今回のテキストのようなものを公にしていくことが私の責務かと感じたため、緊急的に発信したいと思います。のちにちゃんと書籍のようなものにできると良いかと思います。

 このエッセイのタイトルに「指針」というやや気持ちの悪い言葉を使用したのは意図的です。「指針」は「進むべき方向を示すもの」です。そこは「具体的な手順を従わせる」ものではない、ということです。これが「マニュアル」になってしまうとだいぶ怖いことになります。「指針に基づいた行動」と、「マニュアルに従った行動」との大きな違いは「そこで具体的な行動を行ううえで、当事者として考える」というプロセスがどれほどあるか、ということだと私は理解しています。そのようなニュアンスで以下の「指針」についてお読みいただけますと幸いです。

A.情報を受け取り、それを認識するための指針

その1:あるニュースを受け取ったとき、そのニュースは真実よりウソの方が多い。
[コメント] 人は、自分にとって都合の良いニュースより、都合の悪いニュースの方がたくさん受け取ります。少なくともあなたが受動的にニュースを受け取っているとしたら、そのニュースは真実よりもうその方が多いです。さらには、一つのニュースは「真実かウソか」で分けられるほど単純なものではありません。1つのニュースには、常に「真実とウソ」が同居しています。何についてどの程度真実か、という視点をもってテキストを受け取るようにしましょう。

その2:ニュースがどれほど真実であるかという度合いは、ニュース取得の能動性と現場性、専門性、そして再現性を検証する。
[コメント] テレビで偉そうな人が言っている偉そうなテキストを聞いていると、なんとなくそれがさも真実であるかのように認識しまいがちですがそんなことはありません。受動的にあるニュースが入ってきたら、今度は能動的にそのニュースを取りに行きましょう。そうすると、様々な立場からの様々に多様なテキストを得られるはずです。そのテキストを並べて、(あ)そのニュースが「そこで、実際に見た/触れたことか?、(い)そのニュース+メッセージは、そのニュースを発信するにふさわしい立場の者から発信されているか?(う)能動的に関連するニュースを取得したとき、発信された事実が他の複数のところからも発信されているか?について確認しましょう。それは一つもないニュースは「嘘」として流しましょう。

その3:客観的事実と主観的事実がある。そして、あなたの中の事実は主観的事実でありそれはあなたの中では真実だが、他人にとっては真実ではない。
[コメント]  例えば、「NさんとTさんが先週金曜日の夜10時にPというレストランで二人で食事をしていた(あるいは、午後11:30分にVというシティホテルから二人で出てきた)」という「事実」があったとします。それは、あなたの中で必ず文脈とつながって「主観的事実」として認識されているはずです。ある人はその事実を「NさんとTさんが不倫をしていた」という「事実」として受け取るでしょう。しかしそれは、文脈とつながっている事実です。同じように、「ウィルスPCRの検査したら陰性の結果だった」という「事実」もまた文脈とつながっています。それをどのように受け取ったらよいかについて、「この結果どう理解する?」と他者に聴く癖をつけましょう。

その4:実際に見た/触れたものでないことや、未来についてのことのほとんどは仮説である。
[コメント]  当たり前のことなのですが「OOOOとなっているらしい」とか「これからOOOOとなるにちがいない」といったテキストの真実性は基本的に低いのです。なぜならば、それは構造的に「仮説」の域を脱していないからです。事実は「いま、そこで、見た/触れたこと」であることが基本です。

その5:メッセージ発信源の意図を読み取ろう。そして1人のメッセージ発信者の中にも複数の意図がある。
[コメント]  メッセージを発信する人は、何かしらの意図とともにメッセージを発信しています。政治家・行政の方や警察関係の方のメッセージの意図の基本は「社会秩序を保つ」ということにありますし、ヘルスケア専門家のメッセージは「人が健康を害することを個人あるいはマスのレベルで防ぐ」という意図、YouTuberのメッセージは「“いいね”カウントをメガにすること」という意図が少なからず入っています。さらには、メッセンジャーはある一つの意図に支配されているわけではなく、複数の意図をもってメッセージを発信しています。その意図を想像してニュースを「知る」ことで、認識や価値づけの整理の助けになります。

B. ある情報を知ったときに立ち上がる感情をやりくりするための指針

その6:「知る」ことでもれなく不安は立ち上がる
[コメント]  今まで知らなかったことを「知る」と、人はもれなく不安になります。そして、「知った」ことがらが自分の今後の思考や行動に何らかの影響を与える場合はその不安はとても大きなものになります。何故なら、不安はその人の自己が変容するときに発生する副産物だからです。不安感情が立ち現れたとき、「ああ、今自分は自己変容のプロセスの中にあるのだ」と考えてみましょう。立ち上がる不安を封じ込めるのは、不安のドライヴが自分自身た他人を傷つけてしまうリスクがあるときのみに限定しましょう。

その7:「安心したい」という欲望をあなたの中に発見したとき、それは「今のままでいたい」という欲望だと変換しよう。
[コメント]  不安は自己変容の副産物であると書きました。だとしたら逆に「安心したい」とあなたが考えている時、それは「変わりたくない」「今のままでいたい」とあなたの中の自己が主張している時だと考えてみましょう。結果として得られている安心状態はとても素晴らしいものですが、安心を求める意志は現状に目を閉じる可能性が高いです。同じように安心を提供しようとあなたに近づいてくる人間を疑ってかかりましょう。

その8:考えがころころ変わることは、むしろいいことである。
[コメント]  考えや意見が一貫していることの方が、考えがコロコロ変わることよりも立派なことだというような言説があるようですが私はそうは思いません。なぜなら、考えが変わるということは、ものの見方や認識の仕方、価値づけの仕方に何らかの変化が発生したからです。ある状況に対する考え方が変わったとき、必ずあなたは成長しています。むしろ、昔の自分の考え方に寄り添い過ぎている自分がいたら、その自分と戦いましょう。

C. 「知った」上で、決断に関する指針

その9:決断において「かなえたいゴール」は人それぞれである。ただ、「私」と「公」のバランスは必要
[コメント]  あるテキストについて知り、それを根拠に決断しようとするとき、必ずあなたにはその決断によって「かなえたいゴール」があるはずです。「こっちに行くのが正しいことだから」という理由で決断するのではなく、「こっちに行った方がゴールを得ることができそうだから」という視座を常に持って決断しましょう。一方で、ある決断に関して「公」のゴールがあることがあります。「大規模イベントを自粛する」という行動規範は、まさに「公」のゴールから発信されたメッセージです。もしあなたに決断する権利があるのなら、そのゴールの大切さは常に天秤にかけるようにしましょう。

その10:決断がもたらす利益/不利益について考える時、かならず「他人の不幸」とともに「自分の幸せ」を考慮に入れよう。そして、それらは足し算引き算できると考えよう。
[コメント]  決断は、明示されたルールに従う義務がないのであれば、決断によってもたらされる利益/不利益の度合いを押しあ貼ったうえでなされるべきです。ただ、しばしばある個人が決断を行ううえで「自分のことしか考えていない」あるいは「他人のことしか考えていない」のどちらかであることがあります。両方考えましょう。決断によって自分にもたらされる利益/不利益とその差し引き、そして同じ決断によってもたらされる他人への利益/不利益とその差し引き、さらにはそれら差し引きの差し引きを定量的に推し量ってみましょう。それらは基本的に簡単に足し算引き算できるものではないのは当然です。だからこそやってみましょう。

その11:決断の根拠として科学的事実は大切だが、それ以上にあなたが持つ欲望が「決断の根拠として」大切である。
[コメント]  医学の世界である決断の妥当性について検討する際に、決断の根拠にどれほど妥当性があるのかについての吟味がなされます。それは大切なことですが、ある決断が与える影響のほとんどがあなたに対する影響であるのであれば、ほとんどの場合それらの科学的根拠よりも、あなたがどうありたいかという欲望を根拠の軸にする方が妥当な決断に至ります。

その12:他者を信頼することは「酔っぱらっている」のだ。
[コメント]  ある決断がなされるときに取り扱いが難しいのが「信頼関係の中での決断」です。個人が個人の責任で独立して行う決断などは存在しないと考えてもよいです。決断のプロセスが、自分以外の何からも影響を受けていないことなどありえないのです。ですから、すべての「決めた」ことは、実は「決めた」のではなく「決まった」ことです。その中で、「信頼する誰か(例えば、主治医とか)」の意見や情報提示は「決まる」プロセスのバランスを崩すかもしれません。「誰かを信頼すること」とは「誰かから発信された価値をドミナント価値として酔っぱらっていること」だからです。適度に酔っぱらうのはむしろ良いことですが、泥酔はやめておきましょう。

D.決断後の行動に関する指針

その13:いったん決まったことにくよくよする方がいい。
[コメント]  「決めてしまう」ことは思考を閉ざします。あなたがある事がらについて考え続けているのなら、「決まった」あと、くよくよするはずです。くよくよもやもやしているあなたは、ちゃんと考え続けているのです。反対に、まっしぐらに強い意志をもって道を進んでいるのなら、立ち止まってみる方がよいです。

その14:変化してしまう環境や変化してしまう自分を想像して、その変化に適応するための行動をした方がうまくいく。
[コメント]  安心を望む心は、変化を拒絶する心でもあります。しかし、状況は必ず変化し、あなたもまた変化することから人生を回避することはできません。だとしてら、変わらないでいることよりも、変わったときに変わった自己や環境に自分や自分と環境との関係性を問う適応させていくかについて思いをめぐらした方がずっとうまくいきます。

その15:統治するものから出された行動規範のメッセージは常にある誰かによって都合がよく、他のだれかにとって都合が悪い。それは当然のことだ。
[コメント]  この社会には、社会秩序を統治している人あるいはシステムが存在します。統治システムが発するメッセージは、社会秩序の保持を主な意図として出されることが多いでしょう。それは、異なるゴールを希求する「わたし」や「あなた」にとってしばしば都合の悪い、あるいは不利益をもたらすメッセージです。統治者にとっての最適解は、「わたし」や「あなた」にとっての最善でないことは当然です。そう受け止めましょう。

その16:統治するものから発せられる行動規範には、“推奨”“勧告”“命令”がある。
[コメント]  統治するものから発せられる行動規範には、“推奨”“勧告”“命令”があります。今回のCOVID-19 に関連して厚生労働省や政府が発した「自粛を要請する」というちょっと矛盾したメッセージには、そのあたりの切り分けをあいまいにする苦肉の策が見えます。そして、行動規範が“命令”であるならば、あなたにとってそれがどんなに理不尽であったとしてもそれに従べきだと私は考えます。あるメッセージが「命令」であったとき、そのテキストが持つ公的なドミナント価値は覚悟を伴っていると考えてよいでしょう。その時、あなたの行動はその規範に従属するべきです。一方、自分の規範までも従わせる必要はありません。行動に関して従属することは義務ですが、認識や価値づけに義務はありません。「ルールを破る」ことは「罰せられるべきこと」である一方で、それが「悪いこと」かどうかは別物なのです。

その17:「人のふり見て我がふり直せ」とは、トイレットペーパーを買うことではない。
[コメント]  安心希求のための行動をドライヴさせるのは「多くの人がきっとやりそうなことを、他人よりも先にやりたい」という感情だと私は考えています。その呪縛からなるべく逃避しましょう。巻き取られて、ろくなことはありません。

E. 行動選択ののちに自己に立ち現れることに関する受け止め方の指針

その18:因果関係は、具体的なある結果の一部しか説明しない。
[コメント]   ある因果関係のセオリーを主な根拠に決断することはよいことだと思います。一方で、セオリーに基づいて決断し進んだ道に良い転帰が待っているかどうかはわからないし、むしろ「こんなはずじゃなかった」という状況に陥ってしまうことの方が多いかもしれません。なぜそんなことになるのかというと、因果関係のセオリーは結果のほんの一部しか説明していないからです。ほとんどの転帰は「いろいろ」と「たまたま」によってもたらされるのです。ですから、決断には覚悟が必要ですが、起きてしまった転帰に対して「こんなはずじゃなかった」と考えるのは不合理です。次に進みましょう。

その19:あなたの行った行動は誰かによって必ず責められる。
[コメント]  あなたが決断し、行動したことは、その後の転帰が望ましいものでなかった場合、「あのときの君のあの行動が不適切だった」と責められるリスクを持っています。しかし、責められるのはもう「絶対ある」ことだとしておきましょう。攻める人の多くは転帰を責めていません。過去の決断と行動が自分の意図と異なったことの言い訳として望ましくなかった転帰を持ち出しているだけです。そして、「その後責められたりしないこと」をメーン根拠に決断することも合理的ではありません。

その20:後悔は必ずする。そして、後悔は決断までのことよりも決断後のことによって影響される。
[コメント]  後悔しない決断なども同様にありません。なぜなら、後悔の要素は決断の前よりも決断後に多く発生するからです。過去を振り返った状況でしか、後悔しない決断を吟味することはできません。ですから、決断と行動の矢面に立つとき「後悔しないようにすること」を優先させるよりは、「今の最善」を優先させた方がよいです。


以上です。2時間くらいでザーッと書いたのできっと明日になったらまた「考えがコロコロ変わっている」かもしれません。自分の中でゆっくり時間をかけて膨らましていきたいと思いますが、当座なんかの参考にしていただけるととてもうれしいです。

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