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「解る」より、「判る」より、「分かる」

  Generalistを自認している私は、generalistを説明するとき、そのコアに「分類と統合を繰り返すもの」があるとしています。そして、私の世の中に対する視座の中心も「分類と統合」にあります。そして、分類と統合という所作において、なんといっても大切なことは「分かる」ことだと思っています。一般的に「わかる」ことは、「解る」「判る」あるいは「分かる」という漢字が当てられますが、私にとってはとりわけ「分かる」ことが大切です。

私たちはよく「わかる」と発音されるテキストの多くを、「分かる」という文字で認識します。光村図書のWEBサイトでは、以下のように説明しています。

"常用漢字表において,「解」「判」には「わかる」という訓は示されていません。ですから,教科書内で使用できる表記は「わかる」「分かる」の2種類です。この二つを意味の違いによって使い分けることは難しく,中学校では平仮名表記の「わかる」に統一しています。"
https://www.mitsumura-tosho.co.jp/webmaga/kotoba/detail17.html

さらに、他のサイトでは以下のような説明もあります。

"「判る」は「物事がそれと判別・判断される」(『明鏡国語辞典第二版』大修館書店)という意味であり,「判明」「判別」といった漢語が連想されます。例えば,「倹約と吝嗇(りんしょく)(注)の違いが判らぬ」「敵方の人間なのか味方なのか判らなかった」などと用いられます。一方,「解る」は「物事の意味,内容,価値などが理解できる。」(『明鏡国語辞典第二版』大修館書店)あるいは「人情・世情に通じていて人の気持ちなどがよく理解できる。」(『明鏡国語辞典第二版』大修館書店)という意味であり,「解明」「理解」といった漢語が思い浮かびます。「日本語も相当解る」「言っている意味が解らない」「無理して私の気持ちを誰かに解って貰おうとも思わない」といった用いられ方をしています。それに対し,「分かる」という漢字表記では,「判る」「解る」のどちらの意味も網羅することができます。"
https://kotobaken.jp/qa/yokuaru/qa-59/
(ことば研究館サイトより引用)

 以上のような前提知識を共有しつつ、私が「わかる」ことについて「分かる」という文字が持つ魅力について記述してみます。

 まずは「解る」について。「解る」について私は以下の様に理解しています。

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 「解る」とは、目の前に見えているものや、自分の脳の中に飛び込んできた信号達をテキスト化し、その後の生活に応用可能な「知識」として収納することに成功するような所作です。これは、ある事象の丸暗記のような場合にも、因数分解のような原則のような場合も対象となります。おそらく、高校生までの受験勉強において受験生が「わかる」ことの多くは「解る」ことかもしれません。

 次に「判る」について。以下のような感じでしょうか?

スライド2

「判る」の一番典型的な状況は「真犯人が判った」というようなときですね。すなわち、目の前で起きていることや脳の中に飛び込んできた信号達を「認識」のレベルに落とし込んだ時、その認識は実はまだ「事実」とうまく結びついていないことが多いのです。さらには、認識パタンは一つではなく、いくつもの認識パタンで人はある同一の事象を見つめているわけですが、認識と(外に存在する)事実が結びついたときに人は「判る」と感じるのだと思います。重要なのは、この「事実」というのも実は集団合意によって成立している「認識」なので、ある人が「判った」と感じたとき、それは、単に集団的合意としての共通認識に自分の認識が飲み込まれただけかもしれない、ということですね。

 そして、「分かる」。これには2つの意味があると思っています。ひとつは「知識の分類と再構成」です。以下のような感じです。

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 例えば、あるワインをブラインドで飲んだ時、それがニュージーランドのソヴィニョン・ブランで作られたワインだったとしましょう。Aさんは、「これはNZのソヴィニョン・ブランだと思います」と発言し、ブラインドを開けたときにAさんの「認識」と「事実」が一致した状態を見て「判った」と感じます。これは「判った」ですね。一方、Bさんはブラインドワインを飲んだ時に、ソヴィニョン・ブランぽいけどどこかいつも自分が飲んでいるブルゴーニュとかロワールのソヴィニョン・ブランとは違いので「わかりません」と答えたとします。しかし、ブラインドを開けてこれがNZのソヴィニョン・ブランであると知った後、自分が既存知識として持っている「ソヴィニョン・ブランというブドウで醸されるワインの特性」「ニューワールド・ワインの特性」「冷涼気候で作られるワインの特性」などの「統合された知識」と比較対象しつつ、Bさんは今飲んだ一杯について吟味し、その後今まで自分がイメージしていた「ブルゴーニュあるいはロワールのソヴィニョン・ブランで醸されたワイン」からこの一杯を「NZのソヴィニョン・ブランで作られたワイン」として「分かつ」ことに成功します。この状態がBさんが感じる「分かる」という状態です。それによって、実は統合されていた「ソヴィニョン・ブランで作られたワイン」という知識体系も変化するので、Bさんはこの体験によって実は「ロワールのワイン」についての知識・認識も変化しています。それもまた「分かる」です。

 このような「分かる」体験は、領域を横断する知識になります。例えば、今回の「分かる」という体験が「ミネラル感」という要素を含んでいるとすれば、それはその人が持っている自然災害とか、鮨ネタの知識にも変化を及ぼすかもしれませんし、あるいは「ベンチャー精神」などを要素にした「分かり方」であれば、極端にはそれによって株価の見方や働き方などにも影響するかもしれません。Generalistコアとしての力は、このような体験を「分かる」体験としてしっかりと感じることができる力だと思います。

 もう1つの「分かる」と表記したい「わかる」は、「他者との認識共有」です。以下のようなイメージです。

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 自分ではない誰かと話していて「分かった」と感じる時に必要なことは、「お互いに分かり合えていない部分はほぼない」という前提認識だと思っています。このスタートラインに立つことで「一体目の前にいるこの人は何を見て何を感じそれをどう思っているのだろう」という関心が沸き上がります。そして、その関心とともに行われる他者とのやりとりが「対話」です。対話の中では少なからず発見があります。その発見は、訳が分からない存在だった他者の認識の一部を自分の認識に少しだけ重ねることができたときです。この体験は驚きであり、この驚きをもって人は「分かった」と感じるのではないでしょうか?さらにこの驚きの体験は、別名「共感」という言葉でも表すことができます。他者とのやりとりの中で「分かった」ということは、そういうことなのだと思います。

 「わかる」に「分かる」という字を当てた人は、本当にセンスがいいなあと思います。そして、分類と統合の毎日は、意味不明の他者との対話という名のまぐわいなのだと思います。

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