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素直になりたい


今週の一枚は「スモモとキュウリ」


スモモは前回書いたから、キュウリだけ書くがキュウリの花言葉は「洒落」「つつましい幸福」など。


「つつましい幸福」はキュウリは花が咲けば実をつける確率が高いから、この花言葉が付いたと言われている。


お盆になると、ナスを牛、キュウリを馬に見立ててお供えすることが多い。


このお供え物はキュウリを精霊馬(しょうりょううま)、ナスを精霊牛(しょうりょううし)と言うみたいで、ご先祖様があの世からこの世に来る時は足の早い精霊馬に乗って早く来てもらい、ご先祖様があの世に帰られる時は足の遅い精霊牛に乗ってもらい、ゆっくりと見送りたいという思いを込めたものだそうだ。


昔の人はなんて情緒豊かなんだろう。


俺はまったくそういう事には拘らない人間だから、昔の人は素直に凄いなぁと思う。


俺は過去の話をネチネチとしつこく何回も書いてるから人や過去に対して強い執着心を持ってる人間だと思われてるかも知れないが、実際はまったくそんなことはない人間だ。


過去の事をしつこく何回も書いてるのは、俺の文章を初めて見る人がいつ来るか分からないから、だからしつこく書いてるのだ。そもそもの文章を書き始めた理由が俺の心の中を知ってもらうのが目的だったから、それを変わらず遂行してるに過ぎない。


もちろん、文章を書くことで少しはお金に繋げたい!という欲深い心もあったが、今の俺のやり方のままではそれが不可能なのはもうすでに分かった。ワンチャンお金に繋がりそうなのは、超有名人が奇跡的に俺の記事を見つけることだ。もしかしたら、そこからお金に繋がる可能性はあるかも知れない。しかし、逆に毎日たくさんの人に見てもらうようになると、俺の性格ではそこで文章を書くのを辞めてしまうかも知れない……


だって本来は俺の人生など人に知られないように必死に隠すべき恥ずかしい人生だからだ。全裸でお股全開のような恥ずかしい人生を他人に知られるなんて本当は恥でしかない。


それに、今の少人数だけでも優しい人たちに俺の生きて来た人生を知ってもらえただけで、なんだか人生をゴールしたような満足感に包まれているのもある。


それはつまり、今日の夜に寝て、明日このまま目が覚めなかったとしても、俺の人生はそれで終わりでもいいということだ。


俺の心の中を人に少しでも知ってもらっただけで、もう十分幸せな人生だと思える達成感。


これは決して、悲しい気持ちや投げやりな気持ちで言ってるわけではないんだ。


俺の心の中の幸せメーターのマックス数値は極端に低い。昔から人に対してあまり高望みはしないし、物欲などもすぐに満たされるほどに、普段から欲望自体があまりない人間なのだ。


だからこそ、今の現状に満足して達成感に包まれているのだと思う。


さらに人に関わり少しでも相手から優しくされるとなんだか居心地が悪くなる。人に優しくされると、それ以上の優しさを返さなきゃならないと思って勝手に疲れてしまうのかも知れないな。


昔、ある場所で小難しそうなおばちゃんとしょっちゅう鉢合わせする時があったんだよ。そのおばちゃんはいつもしかめっ面で無愛想で、その当時はまだ屋内での喫煙が原則禁煙ではなかったから、おばちゃんは俺が近くにいても平気な顔してタバコをスパスパ吸っていた。たまにその煙が俺の顔の方に来たりしてたから、タバコを吸わない俺は、


「なんでお前の吐き出した毒々しい副流煙を俺の鼻でシェアしなきゃならんねん!奥歯と前歯全部をホワイトチョコと入れ替えて、一生固いモン食べれんようにしたろかい!!」


などと、心の中で毒の炎を吐いてたが、ある時、おばちゃんが机の上に小銭を忘れて行った時があって、その時はさすがの俺もおばちゃんを追いかけて小銭を渡してあげた。


すると、いつもは男梅蔵みたいなしかめっ面のおばちゃんの顔が、まるで加藤登紀子のプロフィール画像のような穏やかな満面の笑みに変わりこう言った。


「お兄ちゃんありがと!!私の為にわざわざ追いかけて来てくれたん?!」


いやいや、俺がまるで別れが惜しくて東京駅まで追いかけて来た遠距離カップルの男みたいな風に言わないでおくれよ!とは思ったが、おばちゃんの顔がいつものしかめっ面からなんとも可愛らしい笑顔に変わり、さらに、ゴジラ-1のように毒々しい副流煙を吐き出してた口からは素直な感謝の言葉を聞いてしまったからさあ大変!


俺のおばちゃんに対しての好感度は最底辺の最悪状態からの急激なUターンで爆上がりとなった。


なんだこれ?


これがギャップ萌えって言うのか?


さらに、おばちゃんはトドメとばかりにお礼にと缶コーヒーを俺に差し出してきた。


こうなると、ジョージは照れ臭くなり困惑した。


これでは、次におばちゃんに会った時に無視など出来るはずもない。俺もお礼返しの缶コーヒーを差し入れするのが礼儀となる。さらにまた次に会ったら、また相手から缶コーヒーの差し入れがあるかも知れない。


そうなると、俺もまたまた缶コーヒーの差し入れを次に会った時にしなきゃならなくなる。これはマズイ!このままでは缶コーヒーの差し入れ無限地獄から抜け出せなくなってしまうのではないか?


そう思った俺は、それからその場所には二度と行かなくなった。


人に優しくされて、その結果、俺は自ら自分の居場所を無くす行動をしてしまった。


もちろん、人にイジメられたり嫌な事をされるのは嫌だか、あまり優しくされるのも苦手だ。なんとか俺もお返ししなきゃと苦しくなる。


俺にとっては、人との距離感ってなんとも難しい……


こんな俺だから、両親がいなくなると俺一人でこの家で過ごさねばならなくなるだろう。両親がキュウリまで作ってたとは知らなかったが、このままではとてもキュウリどころか他の野菜や果物も作り続けるのは難しい。


両親が昔から繋いで来た風習や思いなどを俺は繋げられない人間なのだ。


俺の心の中を文章にして人に知ってもらったから、ここで満足するような男なのだ。もう、他には何も残すものなどないと思ってる。


でも、また文章を書いてしまうのはなぜだ?


俺が毎日文章を書かなくなっても、それでも誰かは見に来てくれる人がいるこの現実。


もうダメ!


もうこれ以上、俺に優しくしないで!


などと思いながら、またこんなに長文を書いてしまった……


そうですよ、嬉しいのです。


人からの優しさが苦手と言いながら、俺の心を知ろうとしてくれる人がいてくれる事が嬉しいのです。


「俺の心の中を見に来てくれて本当にありがとう!!」


照れずに最初から素直にこう書けば2行で終わることなのに、今日もまた長々と照れ隠しで長文を書いてしまいました。



キュウリの陰に隠れながら、必死に照れ隠しをしてしまった今週の一枚

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