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分かっていない。

 中目黒の事務所へ通勤するようになって、暫く経つ。新しい住所も覚えたし、デスクにはグリーンを置いて育ててるし、職場の人間関係にだって動じない。

 ちょっと設計に無理あるんじゃないの?って暫くブツブツと文句を言ってた駐車スペースにも慣れたし、事務所へ上がるエレベーターの感度が良すぎて、何の達人並みなんだってくらいに何度も早押ししながら、荷物を台車で上げる作業だってスムーズにこなせるようになった。

 今だって、歩いて近くのコーヒースタンドまで行った帰り道に、車のダッシュボードに名刺を忘れた事に気づいて、キーを片手で開けて覗いていた所に、不意に名前を呼ばれたものだから、反射的に振り返っただけだし、

 Tシャツにセットアップを着用した男性が、ニコニコと目の前に立って居る。知り合い?と記憶を遡ってみたら…彼だと分かった。上京して三年間付き合ってた元彼。

 別れた後、一度だけ展示会ですれ違った記憶がある。

 「ひ、久しぶり」と、頓珍漢で大人なる挨拶を交わし、今何してるか?という話しになる。事務所に戻る足を止めずに歩きながら、

 無視するのも面倒で、話さないのも不自然か。

 「よく気付いたね、元気そう。一瞬、誰なのか分からなかった。再会するなんて思ってなかったし」

 「酷いなあ。付き合ってたのに。コーヒースタンドの前から歩いて来る姿を見て、すぐに気付いたよ。右耳に髪をかける仕草、あー〇〇だ!ってね。何で話しかけて来るのよって感じ?無視する事だって可能だったのにって、顔に書いてある」

 鈍感なわりに図星。

 こちらの気持ちなどお構いなしで、目黒川の歩道橋にもたれて笑い声を上げた。

 この男には傷付けられた。

 「もう遠い話しだし、とうに忘れた」

 「悪いのは、オレの方だったし…」

どうにもならないことってあるんだよ、確実に、未熟だというのもあるし、タイミングも合わない。

 目を合わせたくないから、顔を向けないように、

 「そんな事が言えるようになったんだ」と手持ちの冷め始めたコーヒーを、一口飲んだ。

 「ひとくち頂戴…」

 「そうやって人のものを欲しがるのが嫌い」

 「冷たいな、誰にでも言う訳じゃない」

 「わたし、結婚していますから」左手の薬指を突き出して見せた。

 「分かっているよ。オレも既婚者だし」

 (は?…何なの?)

 "分かっている"という言葉の使い方を間違えている人。

 この人はそういう人だった。何も、

 "分かっていない"のに。

 それから、自分が一番好きで、自分しか愛さない人。

 「連絡先、せっかくだし交換出来ない?」

 妙に腹が立って、ヒール脱いで投げてやろうかと脳裏を過った。そんなこと一度もした事ないけど。

 「もう繋がるつもりは一切ないから」 ふと、彼の足元のローファーが目に入って、あまりに靴への拘りが強い男は碌でもないのが多いと思ったら、

感情も秒で平静になった。

ファッションチェックなんてしている場合かよ。




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