思考はテトリス。
神田駅を出て、神保町に最後にやって来たのはいつだっただろうか……?と思いながら、古書店のMAPを片手に歩いていた。物想いの季節には本を求めて彷徨う。彷徨うは言葉にしてみると、やや迷いが強めに感じるけど、この場合の迷いは極めて創造力へ配分が強く掛かる方で、物心ついた頃からそんな"迷い"を抱えた時は本に浸ると決めている。そういうのも在っていい。
ただ、言葉が溜まり過ぎて消費が追いつかないのでは濁りを生じる為、言葉を仕分けし、噛み砕き、咀嚼する。
まさにテトリスのよう、一方で宿題は積み重ねられる。ゲームオーバーにならないように。
最初にこの場所に来たのは、確かノキア製の携帯電話のキャンペーンの仕事だった。さて何年前の出来事だったか……
店主とのやり取りを思い出す。店前にあるワゴンに置かれてるサービス品の文庫本、破格の所謂ジャンクな山。人間は自分の興味があるものに集い偏ると聞いて、ひとり賭けをする。目を閉じて、右へ左へ、あるいは上へ下へ手先の感覚だけを頼りに、脳内でルーレットを回す。このタイミング!と決めたら目を開けて、其処から本を引き出す。
新たな発見と出会いの時。その一冊は、「中島らも」だったと思う。当時、まるっきり、たぶん、絶対、選ばない本。それでも読んでみると何かを感じるものがあって、その後の『心が雨漏りする日には』に辿り着いたのだから、やはり人生と本はわからないものだとも思う。
その店主は、おじさんかおじいさんか朧で、キャンペーンの仕事で寒い日にミニスカートでロングブーツの女が店先で奇妙な行動をしていた一部始終を見ていた訳だけど、会計の時に、「泉だよ」と言った。続けて「ワゴンの中に知恵がある」とも言った。確かに泉は知恵の振り仮名的かも知れないなんて浮かぶ。
じゃあ、泉にコインを投げ入れるんじゃなく、自分が飛び込む(読書の所作)
愛犬がいなくなってから、
第5章の『時間、死、そして猫の魂』が個人的に面白かった。ヴィトゲンシュタインの言葉も繰り返し読んでいます。
後、エジプト遺跡の石碑に掘られた詩も…猫は神の顕現、女神の顕現とみなられて、
得るものがあります。ついでに一部の備忘録も。
25章の『文学の経験』から
夏目漱石の作品『こころ』は、もっともよく読まれたもの。
自分の現在の読書と本の関係性に通じるな、と思いました。
本に助けてもらうことは楽しい。
消えることのない光はいつも、暗いところに隠れているというのである。(続く締めの言葉)
読書と人生観は繋がることもある。良き本によって佳き生き方を模索したいと思いました。
こういう時はフジファブリック♪
何年経っても思い出してしまうことある。