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泣く。〈渋谷編〉

 渋谷のBunkamuraを、抜けた先の路地に、とあるクラブがあった。そのビルの地下1階に階段を下りて行くと、黒い分厚い扉が開き、大音量で音楽が流れる空間に繋がる通路があり、左右に立つ人集りが、通り過ぎる瞬間から、好奇の目で品定めをする。視線は刺すが、甘美な魅了を放つ。見られる事には慣れている。寧ろそうでなくては、女に生まれた意味が無い。そう疑いもせずに地上8センチに立っていた。

 いつものように、ゆっくりと、真新しく下ろしたヒールが傷まないように、雑なヒール音を立てないように留意しながら、フロアまでの空間をレッドカーペットを歩くかのように、優雅にキャットウォークをする。膝を曲げずに、背筋を真っ直ぐに、腰から動くように。どのようなファッションで、どのような視線で、どのような表情をして、どのような話し方をすれば、相手の懐に入り込めるかも微妙に見抜く。それが分かりかけて来た頃だった。

 同性からしたら、たいそう嫌な女だ。

 若い頃は、無知で貪欲で傲慢な時期を、女は経験するものだと思う。人間関係、恋愛のステップは、体得するしか決して上達はしない。そもそも頭の中だけで終結など無理。好奇心は境界線を、越えた先の勲章になり得るのだから。生き物としての男が好きだ。簡単に手の上に乗っかった…と思わせて、焦らして直ぐに降りる。手を繋いで安心させておいて、ある寸前で手を離す。"いつか痛い目に合うよ"そう、友達にも言われた。

 どの位の時間が経ったのか?ドリンクを受け取り、音楽が掛かっているスペースに戻る途中で、いきなり、もの凄い勢いで腕を掴まれた。「おい、どういうつもりなんだよ、連絡しても音信不通って…」ノースリーブの素肌が痛む。

『痛い、放して』



 その男は、二週間ほど前にデートをしたラグビーをしている大学生だった。このクラブで話しかけられて、その時、ロングランヒットしている映画の招待券を持っているというから、観たかったし、誘いに乗っただけ。その後のレストランでの食事は、ただの御礼だし、彼氏でもない異性からの、プレゼントなど受け取れないし要らない。それなのに、帰りの夜道で強引に迫って来たのが嫌で、チェーンバッグで引っ叩いて、そのまま急いでタクシーに乗り込んだ。帰宅後、そのままベッドに倒れて、疲れたのか意識を失った。

 あの男だった…。

 既に酔っているのか引き下がらない。どんどん声が大きくなり、強まり放してくれない。距離が近すぎて、もう無理だと目を閉じた瞬間…「みっともないから止めよう。これ以上、騒ぐならば外へ出てもらうから」と割って入って来たのは、
このクラブでDJをしている彼だった。



 毎週、決まった曜日に通うようになって、ワンシーズンが過ぎる頃、気軽に挨拶をする間柄になり、閉店後、好きな音楽を話し合った。年齢は7つ上で、なんと住んでいる場所が、最寄りの駅同士だと分かる。
 
 彼のいるブースに向かって手を挙げる。(リクエスト)程よく盛り上がったタイミングで、好みの曲が流れる。薄暗く眩い、闇と光の揺れと戯れの中で、お互いだけにしか分からない合図を返す。

 彼は、StussyのTシャツを好んで着ていた。レコードや機材に触れてる手先が、とても繊細で、あんな風に扱ってもらえたら、きっと最高だろうと想像していた。

彼が好きだ。



 ヒールは、見事に折れていた。

 従業員用の休憩室に入り、椅子に座り込む。ミネラルウォーターをペットボトルのまま、一本渡されて一口含む。冷たい感覚が喉元を過ぎて、明るい部屋で、自分の肩に目を落とす。ベビーブルーのシルクシャンタンのワンピース。
先週、購入したばかりだった。

『ああ…やっぱり、肩元のスパンコールが取れちゃってた…』と、更衣室の鏡の前で、溜め息をついた。彼は、「あんな目に遭遇したのに、ワンピースの心配とはね…」と、呆れ気味に鏡越しに目が合う。『まだ新品だし、気に入ってる。それに、このスパンコールは、手縫いで仕上げられてるものだから…』
まだ鏡のフレーム内で、此方を見ている彼が一言、「まあ…なんというか…それなら大丈夫そうだと思って…良かった」と笑った。

 いつの間にか、白いスタンドカラーのドレスシャツに着替えていて、ジーンズの足元は、ビルケンシュトックだと気づいた。こんなナチュラルな普段着を来て、似合っていて…しかも黒の丸めがねを掛けていた。「普段はコンタクトなんだけど、目が乾燥するから、ヤバくなったらめがねに…」と言いきらない間に抱きついた。その日から、付き合うことになった。



 お互いに、生活時間帯は、真逆だった。そんなことは最初から分かっていたことで、すれ違いの時間でさえも、曖昧なエッセンスになって、それは濃密なものへの橋渡しになる。「会えない時間が愛を育てるのさ」これはきっと本当なんだろう。会えば一瞬でふたり以外は、何もない世界になる。

 DJの彼は、夜の世界で生きてる人なのに、不思議と、「朝の香り」のする人だった。一緒に暮らしている部屋の玄関が開く気配を感じて、薄っすらと意識と目蓋が目覚める。朝日が漏れるブラインドの微かな瞬さに、照らされる彼が立っていた。無機質なシーツに身体を預けて、独りで毎晩眠ることに慣れていた自分をゆっくりと抱きしめてくれる匂いを嗅ぐと、心地よさと共に、「朝の香り」がした。首筋から、耳元で、『どうして、夜に生きているのに、朝の眩い気配がするの?』と聞いたら、「さあ?希望の中で生きてるからかな?…あ、でも、この部屋まで歩いて帰る時、毎回、君の寝顔を思い出しながら、夜明けの冷たい空気に触れて来るんだ。はやく会いたいなって…スキップしてる感じ」肩を強く抱きしめられて、お互いの存在を熱を感じ合う。こんな幸せな時間があるだろうか。

 めがねの奥には、「優しさ」が溢れている。




 
 

 折れたヒールを応急処置して、手を繋いで、一緒に歩いた、あの明け方の空…


ああ…そうだった。


彼のことが本当に好きだった。

些細なことで、喧嘩をして、

そのまま別れた。

思い出してしまうのは、現在が満たされていないからなんかじゃない。

今日の朝の気配が、あまりに、あの彼の「朝の香り」に似てるから、記憶を遡ってしまっただけ。

意味なんかない。



寝ていられずに、起き出して、

走りに出る。

振り払うように、探すように、無心に、鼓動とリズムだけを意識して、土手に着いた。



座り込んだら、感情が抑えられなくなって、感情を剥き出しのまま、

泣いた。

わたしは、泣いている。

どうして泣いているのかは、
十分過ぎるほど、理解してる。

だから、泣いている。



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