美食倶楽部のダイナモは、大学生にして「取締役・店長」に抜擢された|メンバー紹介vol.3
こんにちは、モロモロ担当の本間です。
美食倶楽部のメンバー他己紹介シリーズ、前回の津田リーダーに引き続き真打ち登場です。現役京大生ながら、美食倶楽部その他の業務すべてをほぼ1人でこなすチームのダイナモ、前原祐作を紹介します。
美食倶楽部を運営する株式会社Q’sが創業して1年と少し。コロナ禍で美食倶楽部の活動に制限がある中でしたが、2回の大規模FESをはじめ、本拠地であるコミュニティキッチンDAIDOKOROにおいてさまざまな企画を展開、京都における食のプレイヤーの皆さんと数々のコラボレーションを実現することができました。
すべてのプロジェクトの中心にいたのが、前原でした。唯一の社員、しかも大学生。代表の京都移住計画・田村をはじめとしたチームの「大人たち」が仕事を持ってきては前原に無茶振りをする。そんなパワハラまがい(?)の組織運営でしたが、気づいたら彼はDAIDOKOROそして会社の「顔」になっていました。
その活躍ぶりから、株主である京都信用金庫ふくめ満場一致で彼は取締役に就任することになりました。今回は、これからますますDAIDOKOROそしてQUESTIONの顔として活躍が期待される前原の物語をお届けします。
夢は甲子園と人力車
高校最後の夏、甲子園へむけた地区大会。エース前原はマウンドに立っていた。
9イニングを1失点で投げ抜き、延長戦に突入。むかえた10回表、代打を出された前原にバッティングの機会がめぐることはなかったが、チームは2点を取った。勝利は目前だったがその裏、後続のピッチャーが3点を失い、前原の夏は終わった。そして、中学の頃から「夢は甲子園か人力車」と公言していた彼の人生から、野球の2文字が消えた。
前原は、中学の頃から文武両道のいわゆる”できる子”だった。生徒会長で成績はオール5、野球部キャプテン。高校受験もトップ成績で通過し、入学生代表として壇上にあがった。
でも本人曰く「力があるのではなくて、不安だから人より頑張っているだけ」で、自分への自信もずっーっとなかったと言う。テスト前は風呂に入る時間を分単位で定め、試合前に靴下を履きながら聞く曲も決まっていた。そうでなくては不安で、マイルールを定めて不安を乗り越えてきた。そんな弱さと強さが入り混じる姿は、今も変わらないかもしれない。
幼い頃から打ち込んできた野球と並び、彼の中で大きな存在となっていたのが人力車だった。
きっかけは中学生の時に見たTVの情報番組。道ゆく人に声をかけ、自らが引く車に乗せて街を案内して結構なお金をもらう。こんな仕事もあるのかと憧れを抱いた。そして、自分に自信がなくて、人前に出ることはできても一発ギャグができないような、そんな自分を変えたいという思いも重なり、それは「将来の夢」へと育っていった。
試合に負け、野球の道を諦めた前原は、京都に住んで人力車を引きたいという理由で、京都大学を目指した。
カンボジア・アイルランド・女川
僕(本間、1978年生まれ)は自分とはまったく違う時代に育った、Z世代の1人の青年の物語として前原の半生に興味を持っている。
前原が生まれたのは1997年、阪神淡路大震災の2年後だった。宝塚で育った幼少期の記憶は、「ネガティブな話題でいっぱい」だったと言う。東日本大震災が起きたのは中学2年生の時。我慢しなくてはいけないようなまわりの空気や、押しつけの絆に抵抗があった。環境問題で島が沈むとか、エアコンは地球に悪いとか、芸能人の自殺も格差の話も、いろいろなものが嫌でしょうがなかった。
そして高校では甲子園の夢破れ、もう一つの夢である人力車を引くために京都にきた。
5年間の学生生活で声をかけた人の数は1万人はくだらない。乗せた人も数千の単位。何かのキャラを演じて結果を出すスキルは得たが、「自分を変えたい」狙いは叶わなかった。(この経験で得た「人力車声かけノウハウ」がめちゃくちゃ面白いのだけどそれは別稿に譲ろう)
京都大学在学中、人力車を走らせていた京都・東山以外にも前原の活動のフィールドは広がっていった。カンボジアに学校を建てるプロジェクトを立ち上げ、現地に泊まり込んで映画みたいな日々を過ごした。語学留学先として選んだのは「マイナー感がなんかよかった」アイルランド。前原は「資本主義が嫌い」という眩しいセリフをよく口にするが、それはアイルランドで感じたことらしい。(でもヒッピーにはなれないから、パタゴニアに就職したいと思っていたと。やっぱり眩しいぜ)
東日本大震災で大きく被災をした宮城県女川町にも縁を持った。4日間の滞在で出会った町長や町の人たちが何度も口にしていた「100年後の女川」という言葉。8000人の町のサイズ、100年後という時間軸が印象に残った。大きく広がりすぎて、スピードが早すぎる世の中へ抵抗を感じていた中で、「こっちの方に進んでいきたい」と手応えを感じた。
京都からカンボジア、アイルランド、帰国して女川へ。きっとどこでも何でもうまくやってきたことは容易に想像できる。でも心底満足はできず、ずーっと「何か」を探し続けて彷徨い続けてきたのが前原祐作なのだと理解している。
取締役・店長。5月は毎週店開きます
散髪の 帰りの道で 会う風が 風のなかでは いちばん好きだ
短歌が好きなんですと言った前原に、お気に入りの短歌を紹介してもらった。この歌に出会い「散髪の帰りの風」という新しい概念ができたこと、世界の見え方が変わってしまったこと、少し恥ずかしそうに話した。
「世界は断片だと思うんです」前原は言う。一人ひとりの物語は世界から見たら断片でしかないし、短歌の世界は物語ですらない、でも力を持った言葉という断片だ。なのでこの記事では、前原祐作という男の断片を、思いつくままに列挙してみた。
取締役になり、コミュニティキッチンDAIDOKOROの店長の肩書きを持った前原。最初の自主企画は、この場所で自分の名前で店をやることだ。5月は毎週月曜日19時から22時、「店長’sキッチン『月曜日からアルコール』が開店する。
美食倶楽部、DAIDOKOROを背負って立つ前原(通称:ゆーさく)に、是非ぜひゼヒ、会いにきてください。
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