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夢は見るものではなく、見えてくるもの。ミドルエイジの夢の見方を考えた

昨日のNHK『あさイチ』で、博多大吉さんに、いつからミュージシャンを目指ざしていたかと問われて返したトータス松本さんの答えが、まるで、私の混沌とした思考の海に浄化剤を投げ込んだかのように、脳内が一瞬にしてクリアになった。

興奮が冷めないうちに、ここに書き留めておきたい。

決めたのは高2の時ですね
これがその浄化剤となった回答。
トータス松本さん、ありがとう。なんだか、私、やる気ができてきましたよ。

***

2年間勤務した仕事を辞めて10か月になる。
これを機に、何かやってみるのもいいかも、とワクワクしていた。結婚後、初めて、家族や子どもではなく、“自分”のこれからを妄想したのではなかろうか。相談できる機関に足を運んだり、無料セミナーに参加してみたりもした。

あれから10か月。
コロナを言い訳に、私は何も始めていない。いつのまにかワクワクも消えていた。

「決めたのは高2の時」
ミュージシャンになりたいなぁと夢を見始めた時ではなく、よっしゃ、ミュージシャンになるぞ!と決意した時。これは似て非なるものだ。この違いを、私はこれまで明確にさせてこなかった。トータス松本さんの一言で、私の頭の中でこの二つがくっきりと分離されたのだ。

幸せな家庭をイメージする時、私はいつも犬を加えていた。犬が大好きだ。それに、私が子どもの頃に味わったかけがえのない経験を、子どもたちにもさせてあげたい、そう願っていた。ただ、結婚と同時に転勤族となったため、犬のいる暮らしは到底無理と判断。その夢は、想像してニヤけるだけの夢でしかなかった。

それが突然、コロナウィルスの出現により、「家族みんながステイホーム」という予期していなかった生活に一変。こんな非常時に私の頭にとっさに湧き上がってきたのは「ひょっとして、今なら犬が飼えるんじゃないの?」という思考。その一瞬にして、犬と暮らす家族のイメージが鮮明に描かれ、そのために何をすべきかが怒涛の如く浮かんできた。仕事にけりをつけた。ネットで犬の情報を集めた。家族会議をした。大家さんに交渉して、承諾を得た。ブリーダーに行った。わずか1週間とそこらで犬を迎えていた。

20年も夢を見ていた「犬との暮らし」は、たった一瞬の決意で、1週間後には叶えたことになる。逆に言えば、決意がなければ、一生「夢」で終わっていただろう。

トータス松本さん。あなたは私に大切な気づきを与えてくれましたよ。

夢なんだから、自由に想像すればいい。小さな夢も、でっかい夢も、好きなだけ見ればいい。でも注意しなければならないのは、それらを一緒にしてはだめだ、ということ。

夢にはランクがある。「本気で叶えたい夢」、「いつか叶えたい夢」、「叶うわけないんだけど見ていたい夢」。これらには明確な境界線があるのに、私は一つの大きな袋にまとめてしまいこんでいたようだ。しかも中が見えない大きなズタ袋。何を入れたのかも思い出せないまま、長い年月を背中にしょって歩いてきた。

夢は「したい」から「する」という決意に変えた瞬間、イメージがクリアになる。見ているのはただの夢。ぼんやりとした夢。寝ている間に見ている夢とそう変わらない。それが、アクションを起こす決意をすると、夢の輪郭が現れる。夢の方からその姿を現してくれるのだ。夢の形が見えたら、当然、そこへ行くための道筋も見えてくる。

たぶんね。多くの人がこんなことはとっくにわかってるんだよね。私だって、どこかで聞いたような気もする。ただ、やってこなかっただけ。気づかないようにしていただけ。なぜなら、決心してしまったら、実行するためのエネルギーがいる。維持するための努力も必要。

ところが、犬を飼ったことで、行動を起こす前の不安はすべて杞憂だということがわかった。飼う前は、散歩中にうんちを拾わなければいけないことや、雨でも雪でも散歩に連れて行かなければいけないこと、家族旅行に行けなくなることなど、決意を留まらせるようなことをたくさん考えていた。実際に飼うと、それらが当たり前の日常となり、「犬がいるからできない」ではなく、「犬がいるからどうしたらいいかな」という思考にシフトされた。犬のいない生活なんて、もはや考えられない。飼う前には想像できなかった私が存在している。

叶えたい夢は、決意することが大切。
最初の一歩を踏み出せば、あとは見えてくる道を進めばよい。

と、ここまでが、トータス松本さんに投げ入れていただいた浄化剤のおかげで気づいたこと。でも、まだ、私の前に進もうとする思いにブレーキをかけるものがある。

そう、ここからが、歳とともに人並みの経験を積んできたミドルエイジ(中年という言葉より好きな言い方)の私が、浄化剤の匂いが残る思考の海に頭を突っ込んで、じっくり考えてみたことによる気づき。

この躊躇する要因は、私がもう「夢見る子ども」ではないから。

ミドルエイジの私の夢は、「医者になりたい」とか「ピアニストになりたい」とか、はっきりとした輪郭がつかめるものではない。自分の全てを投げうって挑戦するようなものでもない。もっと複雑で不明瞭で、細かくて面倒な条件が付いてくる。なぜなら、これから進む道は、老いゆく親たちの進む道とどこかで交じりあっていたいから。愛犬について言えば、まさに道連れだ。

私は昨日1日、ずっと考えた。トータス松本さんの落としてくれた1滴の浄化剤の作用が効いている間にブレーキの解除法を見つけようと。

そして、たった今たどり着いたのがこれ。

今の私の夢は、はっきりとした輪郭を描くことができない。なぜなら交じり合う道、つまり親のこれからが、全く予測できないからだ。この事実を受け入れることを避けていたのではないだろうか。どんなことにも対応できる心づもりをしておけばいいのだが、それを想像することが辛いのだ。考えないで過ごせば、幸せな1日を過ごせる。明日考えることにしよう。この繰り返しで日々生きている。

そう、私は私の人生を立ち止まっている。現状の守られた幸せな生活に甘んじ、先の不安を考えない。時は流れ、景色も変わっていくのに、ただ一人、前を見ず、後ろも見ず、その場に立ち止まっているのだ。

私がすべきことは、あるがままを受け入れること、なのだろう。私の夢には輪郭がない。まるでフワフワした雲に包まれている。それでいいのだ、それでも夢なのだ、と。これは、経験を積み、幸せと責任を得たミドルエイジならではの夢の形だ。だから、風を見て、夢を包むその雲の行く手を追いながら、その雲に近づいていけばいいのではないか。雲は風に吹かれ、形を変えながら進んでいく。見失わないようにしっかりついていくこと。この決意さえあれば、いつか雲が消え、必ず夢が見えてくる。決意がなければ、雲は毎日流れていってしまうのだ。

夢は見るものではなく、見えてくるもの。輪郭のないミドルエイジの夢であっても、追いかけていれば、いつか必ず見えてくる。

だから、いくつになっても挑戦をやめてはいけない。流れる雲を見ているだけの人生ではもったいないではないか。

***

浄化剤が効いているうちに、まだ思考がホカホカのうちに、私はここに書き留めておいた。何しろ、物忘れが激しいお年頃だから。


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