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おばあちゃんのしたたかな赤紫蘇ジュース

図書館へ予約していた本を取りに行った帰り、普段通らない商店街を通ると、コンビニの外で袋売りされていた赤紫蘇が目に飛び込んできた。

「…はぁ、作るかねぇ」

足元に積み重ねられてあった買い物かごを「よっこらしょっ」と取り、段ボールの中のいちばん上にある赤紫蘇を1つかごに入れた。

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このところ娘に「赤紫蘇ジュースを作って」とせがまれている。毎年夏に帰省すると、いつも母が程よく冷やしたお手製の赤紫蘇ジュースを飲ませてくれた。

「あ~、おばあちゃんの赤紫蘇ジュース飲みたい!」

母から手作りの甘夏マーマレードが届いて以来、娘は毎日のように言っている。去年の夏は帰省しておらず、今年の夏は、たとえコロナが落ち着いていたとしても娘は受験生なので帰らないと決めている。今年もまたおばあちゃんの赤紫蘇ジュースが飲めないと思うと、おばあちゃんの赤紫蘇ジュースじゃなくてもいいから、とにかく赤紫蘇ジュースが飲みたい、そう思ってしまうらしい。

私は赤紫蘇ジュースを作ったことがない。赤紫蘇を買ったこともない。近頃どういうわけか(年のせいだとは思いたくないが)、新しいことに挑戦するのがちょっと億劫になっていて、娘にお願いされてもあまり気が乗らないでいた。

以前はケーキやお菓子をよく作っていた。しかも、かなり力を入れて。もともと私にはお菓子作りの趣味はない。子どもたちが小さい頃のほとんどを海外で過ごしたため、誕生日会や学校のバザー、ママ友の集まりなど、毎日のように何かしら作っていたのだ。

なぜ、それほど好きでもないのに力を入れていたか。それは、「子どもたちが学校で注目を浴び、人気者になれるように」という戦略だった。子どもたちの誕生日に、学校にクラス全員分のカップケーキを焼いて持って行った時の、我が子のしたり顔が嬉しかった。たとえ英語力に劣等感を感じていても、母親の手の込んだとびきりかわいいカップケーキを見たら、クラスメイトは喚声をあげ我が子を囲む。そして我が子はクラスメイトの真ん中で思いっきり優越感に浸るのだ。作戦はいつも大成功を収めていた。

帰国してすでに5年。今は私の出番はない。子どもたちは自分の力で劣等感とも優越感とも付き合っている。私ががんばる必要がなくなったのだ。

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帰宅するとすぐ母に電話をし、赤紫蘇ジュースの作り方を教わった。

まず、赤紫蘇の葉を茎からもぎ取る。気乗りしていなかった私にはこの作業が面倒だった。2L分くらい作る予定だったが、その場合300gの葉が必要で、それは結構な量になる。計りに乗せて重さを確認しながら作業していたが、100gでギブアップ。ま、初めてだし、失敗するかもしれない、ということで…。

次に、鍋に2Lの3分の1、約600mlの水を入れて沸騰させ、そこによく洗った赤紫蘇の葉を入れて中火で15分ほど煮る。するとみるみるうちに鍋の水が濃いワインレッド色に染まった。驚いたことに、葉が緑色に変わっている。

「赤紫蘇って青紫蘇が育ちすぎたものだっけ?」

思わずネット検索して確かめたが、別のものだった。赤紫蘇の葉は太陽から身を守るために葉を赤くするらしい。鍋の中で、自分の身を守るために得ていたものを惜しみなく出し切る赤紫蘇を見ていると、鍋を染めている赤い色が、母の愛のように思えてならなかった。

粗熱が取れたらザルでこして葉と液に分ける。最後の一滴まで完全に色を出し切った葉は、しわしわでどす黒い緑色になった。全ての愛を子どもに注いだあとの母の姿? いや、母に喩えるのはよそう。母の手に似てきたシミだらけの我が手を見てぶるぶると首を振った。

最後は、こした液を鍋に戻して砂糖を加えて弱火にかける。我が家では思春期の娘たちが糖分の摂取に神経質なので、少なめの150g程度にしておいた。砂糖が溶けたら火を止めて冷まし、リンゴ酢を60mlほど加える。一瞬にしてサーッと透明感のある鮮やかな赤に変わった。

植物から抽出された自然の色。絵の具の赤とは違う赤。赤紫蘇の赤は喩えようのないほど美しかった。初めてにしては上出来である。母の作る赤紫蘇ジュースにそっくりだった。

時計を見ると、娘が帰ってくるまであと1時間ほどあった。容器に入れ、キュッキュッと蓋を閉め、最近娘がよく歌っているBTSのダイナマイトのメロディをフンフン言いながら冷蔵後に入れた。

**

部屋でパソコンに向かっていると、突然、床に右半身をぺったりくっつけて寝ていた愛犬が頭を起こし、「ウォフ」と一吠えした。そして慌てて立ち上がり、カタカタと爪を鳴らしながら玄関に走った。

「ただいま~」
左手にスクールバッグ、右手に郵便受けから取ってきた郵便物を持った娘が、愛犬と部屋に入ってきた。私の机に郵便物をどさっと置き、脚の周りでぴょんぴょんする愛犬の頬をなでながら、「おやつ食べよ~」と言ってリビングに行った。

私は耳をそばだてて、壁の向こうの娘の行動を想像した。
―カタッ (食器棚からコップをとったな。)
―ガタガタ (よし、おやつ箱からおやつを出した。そろそろ冷蔵庫を開けるぞ。)
―パカッ

「お母さん!!」

思わずニヤリ。予想通りの反応だ。

「赤紫蘇ジュース作ってくれたの!嬉しい!飲んでいい?」

白々しくリビングに行くと、娘はすでに赤紫蘇ジュースを冷たい水で割っていた。そして、そぉっとごくり。一瞬、目の玉が大きくなる。そして続けてごくごくごく。

「は~、おいしい!お母さん、おいしいじゃん。おばあちゃんのとはちょっと違うけど。でも、ありがとう!!」

しばらくおばあちゃんの赤紫蘇ジュースを飲めなかった娘は、鮮やかな赤紫色のグラスを持ち上げ、目をキラキラさせた。

ふと、実家に帰った時の、小走りに玄関にやってきて「お帰り~」と私の荷物を持ってくれる母の姿を思い出した。私が子どもの頃は、母は赤紫蘇ジュースなんて作ったことはなかった。作るようになったのはここ数年のことだ。今ではすっかり子どもたちに定着し、離れていてもおばあちゃんを思い出させるアイテムの一つとなっている。

母も店先で赤紫蘇を見つけたら「そろそろ作らなきゃ」と買っていたのだろうか。体重を気にするようになった孫たちのために砂糖の加減に気を付けてくれていたのだろうか。孫たちの「おいしい!」と言う顔を想像しながら鼻歌なんか歌っていたのだろうか。

そうやって作る赤紫蘇ジュースだから、鍋の中で愛が溢れ出すのだろう。自分の持っているもの全てを孫たちに、というそんな自己犠牲なんかではなく、きっと孫を想うと知らず知らずのうちに滲み出るモノ。そしてそれがとりわけ好きでもなかったことに挑戦する原動力になる。私が子どもたちのためにクラス全員分のカップケーキを焼いた時のように。

あれ?もしかして母の目的は、おばあちゃんの赤紫蘇ジュースに感激している子どもたちを見る私のニンマリ顔だったのだろうか。勢いよく娘の口へ流し込まれる赤紫蘇ジュースを見る。

…やっぱり母にはかなわない。


母に電話をして、私の初めての赤紫蘇ジュース作りが成功に終わったことを報告した。

「簡単じゃろ。あ、ジュース作ったあとの葉、捨てたらいけんよ」

母が言った時、一瞬ドキッとした。も、もちろん捨てませんよ。

「あれはね、醤油・酒・みりんで煮て佃煮にもできるし、乾かして刻んで塩をまぶしてふりかけにもできるよ」

得意げに言う母に、私は「もう勘弁して!」と心の中で叫んだ。



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