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「鬼滅の刃」で読み解いた『きつねのおきゃくさま』

私には何度読んでも泣いてしまう絵本がある。

それは、今20歳の息子が生まれる前に買った絵本セットの中の1冊、
『きつねのおきゃくさま』

きつねのおきゃくさま2

初めて読んだ時、そのラストシーンに号泣した。3人の子どもたちの読み聞かせには好んでこの本を選んでいたが、読む度にラストシーンで声を詰まらせていた。

それはこんなお話。

むかし、腹ペコのきつねが住処を探していた痩せたひよこに会う。きつねはがぶりとやろうと思ったが、太らせてから食べようと思い直し、家に連れて帰って世話をすることにした。するとひよこに「やさしいね」と言われ、ぼうっとなる。まるまる太ったひよこは、散歩中に住処を探している痩せたあひるに会い、親切なきつねのもとへ連れて帰る。きつねは二人に「親切」と言われぼうっとなる。あひるもまるまる太ってくる。ひよことあひるは散歩中に住処を探している痩せたうさぎに会い、親切なきつねのもとへと連れて帰る。きつねは三人に「かみさまみたい」と言われ気絶しそうになる。みんなまるまる太って食べごろになった時、山から匂いを嗅ぎつけたおおかみがやってきた。きつねは勇敢に戦い、おおかみを追い払った。しかし、きつねはその晩、力尽きて死んでしまう。

私は、これは「悪いきつねが無垢なひよこの清い心に触れ、月日を共にするうちに弱い立場のものを命懸けで守るほど正義感の強い良いきつねへと変わっていくお話」と解釈していた。きつねのひよこたちを守りたいと思った感情と私の子どもたちへの思いが重なって胸を打たれ、愛する者を残していくことを想像して辛くもなった。そうして泣きながら、いつも昔聞いたあるエピソードを思い出すのだった。

それは、私が大学生の頃、単位取得のために研修に行っていたスポーツクラブのスタッフの雑談で耳にした話。

~ある会員の女性が、子どもを乗せて車で山道を走行中、上り坂のてっぺんで出会い頭に大型トラックと正面衝突。とっさに左手をハンドルから放して真横に伸ばし、後部座席に座っていた子どもが衝撃で飛び出すのを防いだ。女性は内臓破裂の大怪我で入院したが、子どもは前歯4本を折るだけの軽傷で済んだ。その子どもが、母親のお見舞いに来る人に「お母さんがすごかったんだ!」としきりに言っていた。~

『きつねのおきゃくさま』を読むと、この話を思い出し、私もきっとあの母親と同じことをするんだろうな、と、「きつねがかわいそう~」と言いながら本を片付ける子どもたちを見ながら思ったりしたものだった。

ところが、それから数年後、そんな私の自信を喪失させる出来事が起こった。

今から10年ほど前、ボルネオ島に住んでいた時のこと。子どもたちを学校に送るため、住んでいたコンパウンド(戸建て集合住宅)の中の道をゲートに向かって車を運転していた。T字路を右折しようとしたら、止まっていたと思っていた車がこちらに向かってゆらゆら走ってきたのだ。見ると、運転している女性(同じ学校のママ友)は誰かの家を探している様子で、全く前方を見ていない。あああ!と思っている間に車は衝突した。

事故の瞬間は実際よりも時間がゆっくり流れていたように感じた。それならば、いろいろ考えることもできただろう。だが私の頭は真っ白になり、呼吸すらできず、だんだん向かってくる車をただ凝視していた。思考なんてものは全くはたらかなかったのだ。

幸い、私はほぼ止まった状態、先方はノロノロ運転だったため、お互いの車が少し凹んだ程度で済んだが、私の心は大いに凹んだ。

子どもたちが大きくなるにつれ、私が『きつねのおきゃくさま』を手にすることもなくなると、そんな凹んでいたことなどもすっかり忘れ去っていた。


ところが。
今になって、突然、この話の伝えたいことやタイトルの意味がわかったのだ。「勇敢なきつね」とか「たたかったきつね」ではなく「きつねのおきゃくさま」であることが。初めてこの本を手に取って読んだ日から20年も経った今になって。しかも、『鬼滅の刃』を観ていて閃いた。私は鼻息を荒げながら本棚からこの本を引っ張り出し、久しぶりに開いて読み直した。

『鬼滅の刃』と『きつねのおきゃくさま』の中には、2つの共通するメッセージがあると思う。

①人はみな愛をもって生まれてくる。人生とはそれを育む旅であり、育むために、人に信じてもらえる存在になるよう生きていき、それによって幸せを得ることができる。

『鬼滅の刃』では伊之助 いのすけがそれを教えてくれている。伊之助は乳児期に何らかの理由により母親の手で捨てられており、山の中で猪に育てられた。誰よりも強くなりたいと獣のように生きている。その伊之助が時折違う一面を見せるのは、炭治郎 たんじろうの純粋な心、優しい言葉に触れた時。天にも昇るようなほわほわした感じになっていつものペースを崩すのだ。これは、『きつねのおきゃくさま』のきつねと同じ。

「きつねおにいちゃんって やさしいねえ」
「やさしい? やめてくれったら、そんな せりふ」
 でも きつねは うまれてはじめて 「やさしい」なんて
いわれたので、すこし ぼうっと なった。
「おっとっと おちつけ おちつけ」
きりかぶに つまづいて、 ころびそうに なったとさ。

誰かが自分のことを心から信じ、温かい言葉をかけてくれていることがわかると、自分の中の愛が共鳴を起こし幸せな気持ちになる。この経験を多くすればするほど、愛は大きく育っていくのではないだろうか。

②愛の力は思考によってつくられるのではなく、愛そのものが独自に力を発揮する

愛が大きく育ったとき、きっと『鬼滅の刃』の煉獄杏寿郎れんごくきょうじゅろうのように強くなれるのだろう。煉獄さんは上弦の参、猗窩座あかざとの闘いで、左目、肋骨、内臓を損傷しても、さらには猗窩座の腕が腹部を貫通しても、母親と約束した「弱き者を助ける」という責務を全うすると心を燃やし立ち向かっていく。尋常ではないこの力は、もはや与えられた愛の力としか思えない。それは自分の思考でコントロールできるものではなく、その人の中で育った愛が独自に力を出すもの。愛がその人を突き動かすのではないだろうか。

 きつねは ひよこと あひると うさぎを
そうとも、かみさまみたいに そだてた。
 そして 三人が、「かみさまみたいな おにいちゃん」の
はなしを していると、 ぼうっと なった。
 うさぎも まるまる ふとってきたぜ。

きつねは、おおかみがやってくる直前まで、ひよこ、あひる、うさぎを食べるつもりでいた。それなのに、おおかみがやってきた瞬間、きつねの体に勇気がりんりんと湧き、彼らを守るために激しく闘ったのだ。きつねはおおかみが現れた時、「ひよこたちを守らなくては!」という思考がはたらいたのではない。知らないうちに大きく育っていた愛の力に突き動かされたに違いない。

そのばん。
きつねは、はずかしそうに わらって しんだ。

そして、そんな自分にちょっと驚いて、でも、それでよかったんだと、満足して笑ったのだろう。

煉獄さんの最期もやはり笑顔だった。これまでの煉獄さんの愛に満ちた生き様を立派だったと褒めてくれる母親の姿を見て、満足して旅立った。


私は「鬼滅の刃」を観て、『きつねのおきゃくさま』が伝えてくれているのは、きつねの勇敢さでも、愛の深さでもない。また、自分の命を犠牲にして他人を救うことがいいと言っているのでもない。人に信じてもらえるような誠実な生き方をしよう。ひよこや、炭治郎のような自分のことを心から信じてくれる人に会えたとき、人は幸せな気持ちになり、同時に自分の中の愛を育てることができるんだよ、と教えてくれているのではないかと思えた。

人に信じてもらえる人間になるためには、人を敬い、丁寧にもてなし、自分もまたその人を信じる。この「信じる」「信じられる」という行為が人間の最高級のもてなしであり、つまりは愛の形なのではないだろうか。

煉獄さんは最期に、炭治郎や伊之助、善逸ぜんいつ禰豆子ねずこを「信じる」と伝えた。これ以上にない応援の言葉であり、愛の言葉である。それによって炭治郎たちは自分の中の愛を大きくし、さらに強くなっていけるのだ。


これまでの私の人生にはどれだけの「おきゃくさま」がいただろうか。これからどれだけの「おきゃくさま」に出会えるのだろう。人生とはきっとこのおきゃくさまに会う旅なのではないかなと、と思うと、涙を流すことなく絵本を閉じることができた。

とっぴんぱらりの ぷう。

お話の締めくくりの言葉。これはきっと、どう感じるのもあなた次第、そう言われているような気がする。

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