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随筆 オーガニック・ベビーカー


「事実は小説より奇なり」など、バイロンよろしく現に擦り切れるほど使い古された言葉ではあるが、おおよそ私たちのような大した先進性もない人間が考えつくような与太話は、現実の域を超えることは到底できない。目を、耳を疑うような奇妙な事実は突如として眼前に現れ、至極当然の如く世界の一部として流れ去るのである。
それは、2020年秋スパイスに塗れたとあるカレー屋にて。

かの疫病にて世が侵せられる目前の晩冬、「音楽で飯を食う」などといった現実逃避と一丁前の承認欲求とが混在した、時勢にそぐわない大仰な人生宣言を以てして実家を飛び出した私は、世田谷5.5畳のウサギ小屋にかろうじてぶら下がっていた。
上京当時は川崎の山奥にて同バンドメンバーと寝食をともにしていたのであるが、生活のあらゆる方面にて折り合いが悪く同居人とその恋人との性行為の淫音に一寸気を乱した挙句軽度のアルコール依存症へと陥った私は、小銭をかき集め夜逃げ同然に世田谷の住まいへと転がり込んだのである。

 さても、皆無に等しくなり腐ってしまった懐を温めるべくとりあえずは職探しだ。折角下北沢徒歩圏内に居を構えているのでこの付近で職を得ることが得策であろう。数多の商店が立ち並ぶこの町であれば、かの疫病の祟りに起因する人足仕事ですら溢れてしまう失業の世であっても多少は求人に余裕があるだろうと楽観し、ならば己の興味のある仕事をしようと飲食に絞って求人サイトのページを繰り始めた。
 「I LOVE 下北沢」と銘打たれた薄寒い求人サイトで私の目を引いたのはカレー屋だった。下北沢のカレー屋でバイトをするバンドマン。いかにもというか、今顧みればあまりの陳腐さに顔を覆いたくなるほど恥ずかしい肩書きであるが、当時の私はその型にどっぷりとハマった様がどうにも痛快で嬉々として面接申し出の電話をかけるのであった。
 面接は難なく終了しとんとん拍子で翌日から出向する手筈となったのであるが、一寸気になったことがあった。採用を下してくれたカレー屋は世田谷エリアに複数の店舗を経営しているらしく、そのうちの一店舗に配属となるのだが私にあてがわれた就労先は「スープカレー屋」であった。

根からのオリエンタリストである私は異国の料理には目がなく特にスパイスカレーは大の好物であったが、スープカレーに限っては断じて許すことができない。
 第一にカレーへのリスペクトが著しく欠如している。カレーは本来、テンパリング(ホールスパイスを油で炒り、香りを油に移す)を施した油にて多量の玉ねぎ、ひき肉やマトン、そしてトマトなど多種多様な食材を煮てパウダースパイスを以て調和を図る。スパイスで煮詰めることは味や香りを食材に移し一体化させるだけでなく、肉をより柔らかくしたり肉の持つ臭みを一種の香りへと昇華させる作用が存在する。つまり食材とスパイスと一つの鍋にて煮詰めることで初めてカレーをカレーたらしめる音律が生まれるわけである。
 聞けば忌々しきスープカレーは、スープと食材を別で用意するというではないか。これでは口内でいくつもの味主張が乱立し、食感に統一性を持たぬ故、一体自分が今何を食べているのかわからなくなってしまう。況してやそのような口内地獄へ、根菜などの悪しき日本の風習由来の食材が入り込んでしまってはどうだろうか。(まず、カレーにニンジンやジャガイモなどの根菜を投入すること自体、私は許せない。欧風カレーは日本人が生み出した悪しき風習である。パサつくのみでなくあの青臭さは一体なんだというのか、胃に流し込むという点で逆に白米が進む。)
 私なら完食と引き換えに大金が渡されようが、絶世の美女から施しを受けることが確約されてようが、躊躇なく厨房に差し戻すだろう。
 第二に慊いのはスープカレーの醸し出す何やら異様な高級感である。これはなにもスープカレーに限った話ではなく日本におけるスパイスカレー屋全てに共通する。実際に私の勤めていたスープカレー屋で腹一杯食おうと思えば1500円は下らなかった。他のスパイスカレー屋で同じような価格帯であろう。
 これはスパイス自体輸入以外で手に入れることはできず、原材料が他の飲食業に比べて高くつくことが第一の要因であろう。これは幾分、日本国内にてスパイスカレーを口にしようと思えば仕方のないことだとは思えなくもないが、スパイスカレーは本来ローカルフードなのである。庶民の味だ。いくら原材料が高くつくとはいっても、無理くりに高級感を出す必要はないだろう。皆一様に見た目ばかりに気を遣い必要のない付け合わせばかりが盛り付けられたカレーを見ると、私は一種のやるせない気持ちを抱いてしまう。万歩譲って、その付け合わせがカレーの味に合えばせん方ないと思わざるを得ないが、大方変に凝ったナムルや茹ですぎた卵など、より口内環境をかき乱すサークルクラッシャーである故、本当に慊い。この異様な高級感を由とする居丈高な店構えは消費者を馬鹿にしてるとしか思えないのだ。

 さて、日本のカレー業界に対する恨み言をつらつらと述べたのであるが、私の勤めたスープカレー屋はその慊い点をカレーのごとく煮詰めて、浮き上がった油分の上澄を掬ったような店である。食材、調味料に至るまで全て有機であると謳っている、昨今話題に上りやすいオーガニック・カレー屋であるのだ。普段、手取り早く腹を満たすことができるグルテンに塗れた炭水化物や、質の悪い油でとりあえず揚げたようなタンパク質ばかり胃に収め、たまさかに口にする野菜類はおそらくヒタヒタの農薬に浮かべられた代物であるような、私の食生活とはまさに対をなす高尚なコンセプトだ。
 この店構え故に、内部のスタッフも高尚かつやる気に満ち満ちたやりにくい人間ばかりなのだろうと多少鼻白らむような面持ちで初出勤を迎えたのであるが、アルバイトは皆同世代であったので存外に接しやすく、私以外は女性スタッフという修羅の環境であるにも関わらず腫れ物扱いされるでもなく暖かく迎え入れてくれた。ただ一つ、対人関係において憂慮すべきであったのは店唯一の社員の存在であった。
 唯一の男手となれば半ば強制的に厨房の業務をあてがわれたのであるが、根が怠惰かつガサツにできている私は、その店唯一の社員(30代前半でひっつめ髪、いかにも有機食にうるさそうなキビキビとした女性)に計量匙の使い回しやカレーの保存方法など衛星面において悉く叱責を受け、レードルの持ち方ですら口うるさく指南された。
 とある昼間のゴールデンタイム、次から次へと舞い込んでくる注文の嵐に厨房の私は、一寸の息つく暇もないほどてんてこ舞いを強いられ、とにかくオーダーをこなすことのみに注力し盛り付けの細部までは気が回らなかった。ただでさえ水分の多いスープカレーを器に一滴も飛ばさず盛り付けるのは平時であっても至難の業であり、忙しさにかまけて多少のガサツさは見逃しを受けるであろうとタカを括ったのが失敗であった。かねてからの私の木偶の坊加減と忙しさによるストレスとで痺れを切らしたであろう、先の社員が
「ちょっと!これ!ちゃんと拭きなさい!君のご両親は汚い器で君にご飯を出してきたんですか?」
と、明らかな敵意を以てして大声で罵ってきた。これに私はギュッと胃を握られたような屈辱的な思いを抱いたのも束の間、盛況を迎える店内の客の視線が一気にこちらに向かっているのに気づき、なんとかしなければと必至に機転を効かせ罵られたのと同じく馬鹿にでかい声で
「申し訳ございませんでした!」
と叫んでやった。
これに社員は気をよくしたのか、はたまた呆気に取られたのかは定かではないがそれ以上険を飛ばしてくることはなく、余計な追従を受けずに済んだのである。
 この日を境に、私は何かにつけてしつこく注意してくる社員に対してはタフネスを見せつけるかの如く、体育会系さながらの威勢の良い返事で受け答えをすることを心がけた。ただ、叱責の内容を噛み締めるでもなく反射的に威勢の良い返事を繰り出していた結句、
「樋口くんは返事だけはいいね」
と皮肉られるようになってしまった。
 しかし、その社員の語気は幾分か柔和なものへと変容しており、叱責以外での雑談も明らかに増え、ハキハキと返事する私に対して好印象を抱いてくれていることは手に取るようにわかった。
なるほど、社会において体育会系が重宝される所以はここにあるのか。仕事の出来不出来よりも愚直で歪みのなさこそが重要で、可愛げがあればそれだけで評価の対象となり得るのである。私は齢20歳にして社会を生き抜く術を身につけたのであった。

 勤務し2ヶ月ほど経ち、厨房での業務もしっかりと板につき、かねてからの威勢の良いピエロによってどういうわけか社員からの信頼を勝ち得た私は、店の清算や締め作業を任ぜられるようになり、(本当はよくないのだが)暇な時間帯に至っては私一人が店番することもあった。
 そんな或る日、俄かには信じられぬような出来事が起こったのである。
 10月の暮れだったか、20時を周り店が閑散としている時間帯にベビーカーを帯した三名の家族が来店した。夫婦ともにおそらく40代後半あたりで、失礼ながらベビーカーに乗るような赤子を背たらうには少々、年嵩であろうと見受けしてしまった。とは言っても私の両親も熟年婚であり、現代においてはさして珍しいことでもなかろうと大して気にも留めなかった。
 ただ、一寸違和感を感じたのは彼らの表情である。生気のないとまではいかないが、来店時に扉に備え付けられたベルがならなければ、店に入ったかとすらも気づかないような陰鬱さ、幸のなさを纏っていた。薄気味悪さを覚えながらも中へと招き入れ、他客はいなかったために好きな席に着くよう案内した。聞こえているのかいないのか、彼らは返事もなしに出口に一番近い席を陣取る。そこはベビーカーを携えて食事をするにはやや手狭な席であり、奥にはもう少しゆったりと腰掛けられる席もあったのであるが、いかんせん、元来捻くれ者の私は、先に案内を無視されたこともありそちらへの誘導は控えさせていただいた。
 先にも述べたよう、暇な時間帯はワンオペで店を任されている私は、他にスタッフもいないためオーダー等の御用聞きも私がしなければならない。二つのグラスに入れた冷水を供しながら注文を聞くと、旦那と思しき男性は
「この、オーガニック野菜がたくさん入ったやつ、三つで」
とぶっきらぼうに言い放った。先ほどの応対といい店員に対して敬語も使えないのか、失礼極まりない奴だ。
と思ったのも束の間、はて、スープカレー三つと申し付けられたが如何しようか。正味の話がこのスープカレー、ベビーカーに乗る必要のある赤子が安易と平らげることができる代物ではないのである。辛さこそ大したものではないが、曲がりなりにもスパイスカレーであるからして、多種多様のスパイスを配合したカレーベースを使用している。スパイスに食べなれている人であれば難なく完食できるが、苦手な人や初めて口にするような素人では拒絶反応を起こしてしまう可能性も大いにあるのだ。第一、量も相当のものだ。家系ラーメン屋のような嫌にどデカい器になみなみと盛り付け、さらには野菜の追加トッピングともなれば、並の成人男性でも腹がちぎれるほどであろう。
 しかし、先方の横柄な態度に些か腹を立てていた私は、かような完食不可であろう旨を告げず、別の提案をすることもなくそそくさと厨房へと踵を返した。なにも、悪いことをしたわけではない。却って店にとっては売り上げになる。野菜の追加トッピングで一皿1600円、計4800円だ。私はこの店のカレーに対して全く以て誇りを抱いていない(むしろ嫌いであった)ので、無惨に残飯と化されようが何一つ心が揺れることはない。心の底から興味がなかったのだ。
 小鍋にパウダースパイスを投げ入れ、寸胴からスープを注ぎ沸騰するのを待つ。その間にトッピング用のカット野菜をフライヤーにセットして素揚げする。棚から下ろした皿をカウンターに並べて準備完了。慣れたものである。ものの3,4分でカレーができあがりそれらをかの親子に供す。一応、形だけでもと思いベビーカーの前にも一皿供してみて、一寸、どの年齢ほどの赤子が収まっているのだろうかと確認の意も込めて目をやるのだが、来店時と同様、日除カバーのようなものが降ろされていて中の様子を確認することができなかった。
 厨房に戻った私は誰もいないことを良いことにしゃがんでタバコをふかしていると、程なくして
「お会計して」
との声がかかる。レジへと駆けつける際に親子が座していた席にチラと目をやると、やはりベビーカーの前に供したカレーには一切手がつけられていなかった。
「まぁ、仕方ないか…」
と、特段気にも留めず会計を終わらせ店の外へと見送りに出た刹那、ベビーカーの日除カバーが少し開いているのがわかった。なんの気なしに覗き込むと、そこに座り収まっていたのは黒豆のような目、ツルツルの肌、弱々しく半開きになった口。4,50センチほどの球関節を持つ無機質な人形であったのだ。
 私はその赤子である存在に釘付けとなってしまった。目を逸らしたくても逸せないのである。幸い、驚嘆の声を既のところで抑えることができたため、かの親子らに訝しがられることもなかったが、ありがとうございましたの一言も言えず、その場で立ち尽くすのみとなってしまった。

 それから三年ほど経ち、私は帰阪してモラトリアムな日々を享受しているのであるが、たまさかに熟年夫婦がベビーカーを押している姿を梅田なぞで見かけることがあると、かの出来事が鮮明に思い出され、そのカゴの中には無機な眼差しを差し向けてくる球関節が横たわっているような気がしてならないのである。

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