短編小説「国境線上の蟻」#10
君は見ている。
視線の先に広がるのは海だ。かすかに島影を捉えたような気がした、それが唯の幻影だとしても、遥か先には此処ではない地が存在している。
美しくはない、同時に醜いわけでもない。内実はどちらをも内包して、富める者と貧しきものが同じ空の下に呼吸を続ける。
「お前は私を殺したいんだろう」
何を見ているのか、それは分からない。背中はどちらも同じ北を向いている。
君と君の父はまるで非なるようで、その佇まいには経年差こそあれ同じ人間としての孤独が色濃く匂う。
君が孤独であるように、彼もやはり孤独だ。視点を変えれば、彼の影は君の影に重なる。
「そうだ。あの日からずっと……俺はお前を追いかけてきた」
泣いているように聞こえた。海鳥たちが声をあげる。シルエットは影になり、風に掻き消される煙のように黒く儚い。
「ずっと昔……そう、ずっと昔の話だ。私にも若かったころがある。いまのお前よりも若いときが」
ワン・イーゼンはタバコをくわえた。君はその先端に火を与える。煙が流れ、徐々に空へ溶け込んでゆく。
高く、広大だった。君が思うよりもずっと高く広大だった。
「それがどうした?」
「それだけだ。お前は私を薄汚い老人だと思うだろう。だが、その瞬間、君はその薄汚い者に歩み寄ってゆくことになる」
君は何も言わない。
ふたりの距離は数メートルに過ぎない。岬の突堤に渇いた風が流れ、君と君が憎み、探した者の隙間を走り去ってゆく。
分け隔てているものは障壁ではない。一歩を踏み、摑む意思があれば一秒すら不要だ。彼の呼吸さえもが届く。老いを混じらせてはいる、だが、恥らしきはそこにはない。
「ポケットにはナイフ。懐にはピストル。お前はそれを持っている。私が買い与えたと言えるのかもしれない」
この国に流通する武器のほとんどは、男をワン・イーゼンとして財と地位を築かせる道具だった。そして君にとって、彼は既に忌むべき者ではなくなっていた。
「選ばせてやる。ナイフでもピストルでも、お前が選べばいい。最期だ、一瞬で終わらせてやる」
君は思い出す。
季節を越えるために飛び立った鳥が銃弾に弾け、羽根を撒き散らせながら落下してゆく瞬間を。
「親切だな」
ワン・イーゼンを捨ててゆく、在るひとりの人間が振り返る。歪んではいたが笑顔だった。
かつての謀略者も、ときにこんな笑顔を見せたのだろう。
「俺はお前を殺すんだ。親切さなんて、ないよ」
「君は私をここまで連れてきたじゃないか」
「それは仕事だ。ここからは契約にはない。俺の個人的な意思だけだ」
「人は……」
君の目の前の痩せた初老は語り始める。
「人は……人の生きる時間はときに長すぎる。そして感情的に過ぎる。時間が半分になり感情が半分になれば、静かに穏やかに生きる手段を見つけ出せたのかもしれない」
「仮定の話なんて俺は興味がない」
だが君は生まれ育ち、歩んできた時間のことを想う。
そして、君はピストルをかまえた。
つづく
photograph and words by billy.
ここまで。
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