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短編小説「国境線上の蟻」#8

「……リャンミン」
 誰かが君を呼んでいる。君はまだそのことに気づいていない。俯いている。目深にかぶったハンチングで目元は影になっていた。片手をコートのポケットに入れ、壁に背を預けて所在なさげに立っている。
 君はいつもそんなふうに立ってきた。

 物語は少し時間を遡る。
 君が彼に出会ったときのことだ。
 君はその名を「リャンミン」と名乗った。もちろん、偽名だ。だが本当の名前など既にないのだ。偽りも真実もない。生があるのみだ。
「君がリャンミンか?」
 顔はあげない、視線だけで君を呼ぶ声に反応する。君の目は穴を思い起こさせる。それは、底が見えず、獣が呼吸を潜ませているような、穴だ。
「私だ。君だな。リャンミンという若者は」
 ああ、あんたか。
 声は落ちてゆく。通りはクラクションと嬌声に満ちていた。そこで使われる言語は様々だ。どれもが雑音に聞こえた。君は雑踏に紛れこんでいる。気配を殺し、空気のように漂う。君はそれを術として、技として、各地を転々と生き延びてきた。
 街など、いらない。
 君はあたりを睨む。そこに笑うすべての人々に呪いを吐きたくなる。火を放ってやれれば、どれほど良いだろう。必要なのは、荒野だ。氷原だ。森林と、広大な海と。人は単なる動物に過ぎない。獣は、荒野に生きるのが自然なのだ。君はそのことを知っていた。

「ルートは任せる。三日後の午前四時半、アンゲイの港湾再開発地帯にある港へ運んで欲しい」
 店内は薄暗く、照明と言えるほどの照明はなかった。君と男が正対するボックス席にはテーブル端にキャンドルが灯されていた。
「アンゲイ……? アキのことか」
 カウンターには長い髪をカチューシャで抑えた浅黒い中年が染めた金髪と編み込んだ髪の女と何かを話している。
 何を話しているかまでは分からない。
「君は日本人か。タイペイか、あるいは香港系と思っていた」
 男の手の甲には地球を象った刺青がある。円に沿って蛇が一周し、その中央の国の上でヘビは牙を剥いていた。君はその紋様の理由を知っている。子供のころから、幾度となく見かけた。そして、かつて、君もその紋様を背負っていた。いまは、引き攣った傷跡になっている。
「何人でもない。ただの、人間だ」
「まあ、なんでもいい。人種はもはや過去の概念と化しつつある。さて。案件に問題は?」
 男は流暢な公用言語を操った。この国が長いのだろう。
「とくにない。三日後、四国の安芸。再開発地域の港だな。だいたいの位置は分かる」
 君は手渡された地図を眺める。地名、湾、外海、それぞれに三種の言語が割り当てられている。
 本土から伸びるカイキョウ・ブリッジを渡れば男が目指す島があった。
「私はワン・イーゼン。パプリック・ドメインだが、君はその名前を知っているはずだ」
 ああ。君は口にはせずに相対する男の顔を見つめた。
 ワン・イーゼン。
 知っている。それが偽名であること、そして何者であるかも。
「出発は明日、この店の前だ。夕刻に迎えにくる。二○一九年型フォードのピックアップ。色はフォレストグリーンだ。俺は車内で待っている」
 君はそう言って席を立った。
 翻したコートの風がキャンドルから炎を奪う。瞬間、君は振り返る。
 持っている写真とは違う、だが、紛れもなく探していた男だった。

 十年。
 君が最初にその顔を刻みつけたのはまだ十代のころだった。
 十年か。君は思う。
 少年は大人になり、最速でたどり着いたはずだ。そのぶん、写真の男は年月ぶんの歳を重ねている。
 あの日ほどの威圧は、背から立ち昇るような殺意は薄れつつある。
 最初で最後だ。
 君はポケットのなかの拳を硬く握る。いつかのシベリアのように、上下の奥歯が震えて断続的に鳴ってい

前回まではこちら。


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