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短編小説「国境線上の蟻」#9

 海峡を越えてゆく。君が走らせるピックアップ・ヴァンは本土と四国を繋ぐ瀬戸大橋を走行していた。
〝future american territory(ここより先はアメリカ領)〟
 標識の上に括り付けられた星条旗は風に揺らがず垂れていた。昨夜の雨を飲み込んで、それを吐き出せないまま、冷たくなった風に煽られていた。星条旗の下に一回り小さな日の丸。角が綻びて、あちらこちらに穴が空いている。遊び半分に銃口を向けられたのだろう。本気で撃った誰かもいるだろう。
 かつての国道は、そのアスファルトを整備されていなかった。剥がれて凹凸をつくり、路肩の切れ目から痩せた雑草が伸びているのが確認できた。それを踏むたびに車体がバウンドする。捻り切られた草花は芽を出す場所を間違えたと後悔するだろうか。ヒトがそう思わないのだから、せめて、他の命はそれを知るほうがいい。君はハンドルを握っている。
 現在。運び屋としての職務を全うするスペシャリストとしての手腕で以て、速度を緩めず、同時に超過することもなく、安定速度を保つようにアクセルを踏み続けている。軍にも警察にも、目をつけられるわけには、いかない。
「長いのか?」
 ワン・イーゼンが君に問う。それだけでは真意を図ることはできない。彼は意図的に主語を省略している。君はそのことに気づいていた。これからの所要時間のことかもしれない。君のこれまでの経歴かもしれない。
「何がだ?」
「この仕事だ。正業とは言えないだろう。私が言えることでもないがね」
「十年になる。選んだわけじゃない。選択肢がなかった。それだけだ」
「素直だな。私がお前のことを探っているとすれば、どうする?」
「ハンドルを握っているのは俺だよ」
「私に主導権はないと?」
「俺はあんたを運ぶだけだ。それが契約だろう」
 それを最後にワン・イーゼンは口をつぐんだ。
 だが、君は助手席の男が忍び笑いを浮かべていたことに気づいていた。不愉快なはずだった。苛立つはずだった。しかし、君はそのような感情を殺していたわけではなかった。
 君は君のなかにあるべきはずの感情が消えつつあることをまだ知らない。
 ポケットのなかのナイフの感触を確かめる。
 初めてそれを手にしたときのように硬く冷たい。真冬の海に棄てられ、夜を明かした死体のように凍りついたままだ。
 刃を開き、その尖端に親指をあてがう。体温ほどの液体が微かに流れる。その温度の差は君を連れ戻してゆく、もう戻れないと確信した日の朝に。
 あの日の、朝。
 君は、兵かテロリストか、暴虐を尽くした獣が置き忘れたナイフを手にした。農機具小屋で震えているだけだった君が、溢れ返る鮮血の地で、ワン・イーゼンの名を、そしてその嗤う声を知った日の朝のことだ。
「これで良かったので? ミスター・ワン」
「なにを言いたい?」
「あなたは……そもそも……」
「私に祖国はない。故郷もだ。これでいい」
 君は小窓から殺戮者の背中を見ていた。街の誰よりも大きかった。彼らは楽しんでさえいた。
 二足歩行の獣だった。その中心で泣いているようにも見えた、最も惨めな獣こそがワン・イーゼンだった。
 君とワン・イーゼンを載せた車は国境を越えてゆく。かつては日本という国だった。現在はアメリカ領になった、四国という、島。そこには、かつての日本が残っているだろうか。すでに死に絶えたかもしれない。君は思う。この世界に永遠はない。すべては朽ち、潰えるものしかない。
 それでいいのだと、君はよく知っていた。

つづく。
photograph and words by billy.

ここまでの「国境線上の蟻」


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