短編小説 海人(うみんちゅ)
十月中旬というのに、この島を照らす日差しはまるで真夏だった。
珊瑚礁に囲まれた海は、近頃増えたカラフルなクルーザーに占領された小さなこの港の中まで、狂ったように澄み切っている。
この島を訪れる本土からのリゾート客の目には、この海が原始の頃のそれのように、純粋で汚れの無い無垢の海に映るらしい。海底に無残に散らばる珊瑚の死骸がなければ、この島に海人として生まれ、海人として育った那彦でさえ、そう思ったに違いない。
その澄み切った海底にくっきりと影を落としながら、新垣那彦は、サバニに括りつけたエンジンを修理していた。
(長い航海になる・・・・・)
具体的な目的地があるわけではなかった。ただ、海人としての本能が、那彦にそう確信させていた。
この地方独特のくり船であるサバニは、その細身の船体と、船べりスレスレまで喫水線を沈ませて走る姿を見て、とてもリーフの外へは出られそうもないような小舟に思える。しかし、去年他界した那彦の祖父は、この小さなくり船を操り、毎日たった一人で遥か外洋に漁に出ていたのだ。
1本のモリで重さ百キロ近いカジキを仕留めては、波立つ外洋をこともなげに島へ帰ってくる祖父を、那彦は幼い頃から誰よりも尊敬していた。
漁師を嫌い、那彦を残して本土へ働きに行ったまま行方不明の父に代わって、祖父が那彦の海人としての師匠だった。一見ひ弱なサバニが、波に強く外洋にも適した、足の速い優秀な船であることを身をもって教えてくれたのも祖父だった。那彦は、自分が父よりもずっと強く祖父の血を受け継いでいると思った。
漁師が好きだった。何よりもこの八重山の海が好きだった。誰の束縛も受けず、ただ紺碧の海に抱かれて魚と闘うこの仕事が、どんな他の仕事より素晴らしいと思った。
大海原を駆ける豹のように、波に乗って疾走するサバニを操っている時こそ、何にも勝る幸福と自由を得たように感じた。そして、そのことは言葉で教えられるまでもなく、祖父と那彦の心の中に同じ海のように広がっていることが、二人の間で何万年も前から決まっていることのように解っていた。
(もし祖父が生きていたら・・・)
那彦は油で汚れた手を海水で洗いながら考えた。
(この島を出ようとは思わなかっただろうか・・・)
まぶしそうに島の方を振り返った那彦の目に、真っ白にそびえ立つ巨大なリゾートホテルが映った。「やまとんちゅ」の巨大資本がこの島にもたらした白亜の殿堂だ。
環境問題に紛糾し、町長の汚職が騒がれながらも、この東シナ海に浮かぶ小島にジャンボジェット機が舞い降りるのは間違いないと見込んだ人々が、金を出し、土地を売り、目先の欲に目が眩んで建てた代物だった。
子どもの頃走ったり潜ったりした渚は、都会のハイレグ娘たちの甲ら干し場と化した。鮮やかな熱帯魚たちが舞い、竜宮城を夢想させた珊瑚礁の海には、ホテルやゴルフ場を建設する時に流れ出した赤土が降り注ぎ、珊瑚たちの息の根を止め、魚たちを追い払った。今は透明度を取り戻しながらも都会の温水プールになり果てた死の海の上を、水上バイクが駆け巡り、クルーザーが泡立てている。
確かにこの島の人々には、あぶく銭が入った。
シーサーが鎮座する漆喰固めの屋根瓦の代わりに、エアコンの室外機がうなりを上げるコンクリート住宅が増えてきた。雇用も増大し、細々と畑を耕さなくても、女たちは観光業者から現金収入を得ることができるようになった。漁師たちは、漁場に出て、いるかいないか判らない魚を探す代わりに、都会からの釣り客や観光客に愛想笑いするだけで、今までよりずっと確実に、しかも多額の収入を手にすることができるようになった。借金をしてでも漁船を観光用のクルーザーに替えた方が間違いないと、誰からとなく言い出し、誰もがそうした。浜の片隅には、見捨てられたサバニが何艘も朽ち果てていた。
男たちは海人であることをやめたのだ。
そんな島の男たちに、祖父は何も言わなかった。ただ黙々と海へ出て、カジキと格闘し、帰ってきては海を見つめながら泡盛をあおった。
ずっと昔からの海人の営みをただ黙々と続けることが祖父の無言の抗議なのだ、と、那彦は思った。
島一番のモリの使い手であり、三線の名手として昔から漁師たちに慕われていた祖父だったが、いつの間にか一人、また一人と、訪れる男たちが減っていった。
そして、二十歳になった那彦だけが、祖父の泡盛の相手になり、三線の聴き手になった。
ちょうど去年の今ごろだった。いつもなら那彦と一緒に家を出て、競うように仕度をし、先を争ってサバニを走らせる祖父が、じっと浜に座り込み那彦の仕度ぶりを見ている。
身体の具合でも悪いのかと、那彦が手を休めて祖父の方を見ると、珍しく祖父は独り言を呟いていた。その時はたいして気にもせずに出漁を促し、後からゆっくり出ると言った言葉で先に船を出した那彦だったが、沖へ出れば出るほど祖父の独り言が気になり始めた。
やっぱり体の具合が悪かったんじゃなかったのか・・・。
結局その日は漁にならず、早々に引き上げた那彦を待っていたのは、祖父の行方不明の知らせだった。那彦が浜へ帰る少し前、無人の祖父のサバニがリーフの外れで発見されたのだ。捜索に出た島の男たちが祖父の亡骸を見つけたのは、その日の夕方だった。
外海からリーフの中へ海水が流れ込むその珊瑚礁の切れ目に、祖父は潮に洗われて漂っていたという。その手にはしっかりとロープが握られ、その先のモリには体長2mもの芭蕉カジキが仕留められていた。祖父の漁場は遥か沖である。
新垣んジイは、島へ還る時はいつでも大漁じゃ・・・。
島の男たちは口々にそう言った。
葬式の日、那彦は祖父を失った悲しみよりも、あの日の朝、祖父が呟いていた独り言の意味が無性に気になっていた。
あれから一年、祖父がしてきたようにただ黙々と海へ漁に出続けた那彦は、ようやくその意味が少しずつ解りかけたのだった。
スターターを思い切り引っ張ると、つまずきながらもエンジンが鼓動を打ち始めた。最小限の荷物を詰め込んだザックを船に放り込み、那彦はギアをローに入れ、アクセルレバーを回した。いつもならすぐにハイにするギアを、今日はローのままゆっくりと浜から離れていく。真昼の港には人影もなく、ただ澱んだ倦怠の底に沈んでいるように見えた。
祖父の亡骸が漂っていたリーフのはずれまで来たとき、那彦はゆっくりと船を停めた。そして、幼い時に祖父からもらったリュウキュウオキナエビスの美しい貝殻を、珊瑚たちが揺れる澄み切った海底に投げ入れた。それは舞うようにゆらゆらと輝きながら、リーフの外の深く青い淵へ沈んでいった。
ーーー目に見えるものだけを信じるもんは、ニライ・カナイにゃ行けんーーー
那彦は、まだ揺らめいて沈んでゆく貝殻から目を上げ、ギアをハイに入れた。心地よい加速感とともに外海へ飛び出したサバニは、しなやかな野獣のように波に乗って疾走する。
海風を全身に浴びながら、那彦は別の耳慣れたエンジン音がついてくるのを知った。
振り向かずとも、それが祖父の乗ったサバニのものであることは解っていた。
(じいちゃん、俺も、俺のニライ・カナイを捜すことにしたよ!)
サバニが進むにつれて海はその青さを増し、深めていった。
舳先が蹴立てる波の飛沫が、那彦の両側に鮮やかな虹を作っていた。
完
(1991年の未発表作品に加筆)