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【短編小説】らっぽやん #3  らっぽやん、名古屋へ出る

 日本の一部地域では、子どもたちの間で
トンボとり名人のことを「らっぽやん」と呼ぶ。

 終戦から8年経った昭和28年。
疎開先の奥三河の山村から
焼け跡の名古屋へ戻っていたミノルは、
家政婦をして働く戦争未亡人の母を支えるため、
新聞配達をしながら高校へ通っていた。

 暮らしは決して楽ではなかったが、
下町の人情に支えられ、
高校まで行かせてもらっていることが
いかにありがたい事かと、心から思っていた。
 
 昭和25年から始まった朝鮮戦争による
朝鮮特需とも言われた好景気は、
一部軍需産業のみが甘い汁を吸っただけで、
その朝鮮戦争もこの7月に停戦し、
一般日本国民は相変わらず貧しいままだった。
 
 アルバイトに明け暮れた夏休みも終わり、
土曜日の午後、中央本線の汽車で
鶴舞駅へ降り立ったミノルは、
ガード下で物乞いをする傷痍軍人しょういぐんじんたちの前を、
鶴舞公園へと歩いた。

 たとえ傷ついてもいい、
目が見えなくなっても、手足が無くなっても、
父には生きて帰ってきて欲しかったと、
傷痍軍人を見るたびにミノルは思った。
 

 噴水塔の近くまで来たとき、
哀愁あるハーモニカの音色が聞こえてきた。
ここにも傷痍軍人がいるのかと思ったが、
その音色は軍歌や唱歌ではなく、流行歌だ。

 「♪サンドイッチマン、サンドイッチマン、
 おいらは町のおどけ者・・・」
おもわず口ずさんだミノルの前に現れたのは、
ペンキで薄汚れたナッパ服を着て
ハーモニカを吹いている若者だった。

「・・・タケシ?・・・タケシじゃないか!」

「へへへ、ミノル、元気そうじゃのう!」

 ハーモニカを吹いていたのは、
ミノルが戦時中疎開していた奥三河の親友、
タケシだった。

 終戦直前に兄を特攻隊で失い、
病気がちだった母親も、
その後を追うように1年後に亡くしたタケシは、
地元の中学を出て名古屋の看板屋に弟子入りし、
映画の看板を描いているという。

「あれか、映画館の上にある、俳優や女優の顔が
 描いてある、あの看板か?」

「そうじゃ!」

「ローマの休日とか?」

「おう。ヘップバーンじゃ。
 親方もほめてくれたで。
 次の『君の名は』は、
 全部任せたると言ってくれた。」

「すごいがやタケシ!」

 噴水塔の階段で話す二人の前を、
進駐軍の米兵たちがにぎやかに歩いていく。
彼らの腕にはヘップバーンにあやかった、
派手なワンピースを着た若い日本人女性が
ぶら下がるように連れ添っていた。

「大人になるのって、なんか、つまらんのお。」

そういうとタケシは胡蝶が池の方へ走り出した。

鶴舞公園の胡蝶が池


 9月に入って花は終わり、
伸びたハスの葉の上を、
紺色に輝くチョウトンボが何匹も舞っていた。

 それを子どもたちが採ろうとしていたが、
ふわふわ飛んでいるようでいて、
タモを近づけると、
意外に素早く舞い上がってしまう。

チョウトンボ


「ちょっと兄ちゃんに貸してみ。」

 タケシは子どもたちからタモを借りると、
しばらくチョウトンボの動きを見つめ、
ホバリングした瞬間、
タモを振り一瞬で捕まえた。

「さすが、らっぽやーん!」

「お兄ちゃんすごい!」

「見てみ、羽根がキラキラしてきれいだろう。」

 その藍色の羽根は、
光の角度で色を変えて輝いた。
それを見つめる子どもたちの目も輝いていた。

「なあ、タケシ、身体は大人になっても、
 心は子どものままでいいんじゃないのかな。」

「・・・うん、そうだな。」

 二人が見上げた晩夏の空を、
チョウトンボがふわりふわりと気楽そうに
羽根を輝かせて舞っていた。



作:増田達彦(水澄げんごろう)
初出:2021年9月 名古屋市水辺研究会会報
この作品はフィクションです。           

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