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「仁義ある戦い」⛏まかないボランティア日記🍛

アフガニスタンで凶弾を受け、非業の死を遂げた故中村哲医師の元で、ボランティア活動をされた著者による、現地での活動、共に働いた人々、医師の足跡を、飾らない文章と素朴なイラスト、漫画で綴った、回想録である。

様々な現場で、その時必要とされた仕事を担った著者が、本領発揮して、もっとも日本人スタッフに歓迎されたのが、賄い料理の腕であった。

赴任当初は当番制で、中には包丁など、握ったこともない日本人スタッフが作る食事を、不味かろうが誰も文句を言わず、食べるしかなかったのだが、著者が初めて作ったチャーハンを食べたみんなから歓声があがった。「おーっ!味がする‼️」

大好評だった 炒飯のレシピ

料理の腕に多少の覚えのあった著者が、いつしか夕飯の支度を全面的に任されることになった。(朝と昼は現地のスタッフが作っていた。)

現地の食材を工夫して、日本人の口に合うように調理するのだが、どうしてもさっぱりした和食が欲しくなる。ある日、年配のスタッフに、真剣な顔で要望された。「白菜の漬物が食べたい!」

アフガニスタンの市場には、白菜は売っていない。パキスタンのペシャワールの市にはあると聞き、誰かが来るついでに調達して運んでもらう。

「大さん、これよ!僕が食いたかったのは!」

後から食堂に降りてきた中村医師:
「お、漬物ができたん?」「アフガンで白菜の漬物が食えるげな、嬉しかねぇ。」
…この御方に少しでも喜んでもらえるならば労は惜しまぬ…料理人はそんな気持ちになった。

がっしりした体格を見て、「君は現場やね。事務所で座っているのは勿体無い」と、初対面で中村医師に期待された著者。現場から戻れば、その時ある食材を工夫して、10人分の夕食を作る。一時は漫画家を目指したこともある著者は、英語が通じない現地のスタッフには、工事の工程を得意のイラストで描いて伝えた。

徐々に現地の治安が悪化、2008年には日本人スタッフの誘拐、殺害事件が起きて、日本人スタッフは帰国を余儀なくされたが、2010年、著者は再びアフガニスタンに赴き、ガンベリ砂漠の開拓農場の仕事に従事する。

二つ目の用水路建設地
ー画像は全て 本書よりー

気温が50°にもなる砂漠は、"死の土地"と呼ばれ、文字通りの灼熱地獄だったが、2009年から始まっていた用水路が伸びて、ガンベリでの灌漑が始まると、わずか数年で緑地に変化していった。

稲穂が風に揺れ、オタマジャクシが泳ぎ、鳥がそれを食べにくる。枯れ果てた大地に生態系が復活するのを、著者は目の当たりにする。

中村医師とペシャワールとの縁は、1978年、福岡登高会のティリチミール山(7708m)登山隊に同行したことに始まる。当初、パキスタンとアフガニスタンでハンセン病の治療に当たっていたが、赤痢等の感染症の急増に、まずは水不足を解決しなければと井戸堀りに着手、やがてアフガニスタンで用水路建設を始める。

「水がなければ、人は生きていけない。薬で飢えや乾きは直せない。病気は後で治すから、まずは生きていてくれ」

医師であり、治水工事の知識など全くなかった氏は、娘さんの高校の教科書も含めて、専門書を読み漁り、猛勉強の末、日本古来の工法が、現地に最も適している、と考えた。自分達が去った後も、現地の人たちが修復して使い続けられる工法でもあった。

福岡県朝倉市の山田堰の管理者は、ある夏の暑い日訪れた中村氏が、3時間余り、ずっと堰を観察している姿を覚えており、その後も何度も訪れたと話す。

山田堰の取水口の「必要な分だけ水を取り、不必要な水は元に戻す」構造に、氏は自然と共存する先人の知恵を見る。アフガニスタンで手掛けた二つの堰は、それをさらに進化させた形という。

              📚

川筋者[かわすじもん]…筑豊の沖仲仕を取り仕切る「玉井組」の親分、玉井金五郎と妻マンの半生を描いた小説「花と龍」を書いた長男・玉井勝則(ペンネーム・火野葦平)は、中村哲の伯父にあたる。

📖…筑豊の風土と人情を象徴する"川筋気質"は、キビキビし、ぐだぐだ言わず、竹を割ったような性格を好み、宵越しの金を待つのは男の恥とする…昔なら「あんた、川筋の男やねえ」と女性から言われたら、男にとって最高の褒め言葉であり、求愛の言葉でもあった…📖「筑豊原色図鑑」

このような家系が、仁義を重んじ、情も深く、医者となってのちも困っている患者や貧者のために労を惜しまなかった中村医師の精神形成に大きく寄与したのだろう、と著者は書いている。

ちなみに、著者も同郷である。

大学卒業後、自分の居場所を探しあぐねて、様々な職を経験し、各国を放浪した著者が、中村医師の存在を知り、ペシャワール会の現地ワーカー募集に応募し、医師の志を助けたい、と持てる力をフル回転させて奮闘する姿が、絵の力もあって、とても分かりやすく好ましく伝わってくる。

著者は現在、高校教師をされているという。

ひとりの日本人医師の足跡が、こうして若者にも読みやすい書籍になったことを考えると、著者と中村医師との出会いは、個人的な得難い経験に止まらぬ、本当に幸せな邂逅だったと思われる。

  
            ⛏ ⛑ ⚒

かわすじもん・中村医師の言葉…

🌱人に名前を聞くなら、まず自分から名乗るのが筋だろう!(アフガニスタンに駐留する米兵に検閲を受けて)

🌱仕事は泥だらけになって覚えろ。知識は後から身につく。

🌱我々はいずれ去る身。彼らの文化や風習を尊重しなさい。

🌱もし、このカマの工事が出来なくて、通水できなかったら、片腕を切り落として彼らに詫びるつもりだ(カマ第二堰の突貫工事で)

🌱(現場で一緒にタバコを吸いながら)日本で吸っても旨くない。ここで吸う煙草が一番旨い。

(黒部ダムに匹敵する国家的規模のプロジェクトの指揮を執りながら、少年のように、無邪気に心底から仕事を楽しんでおられた中村医師…)著者は文章をこう結んでいる。

中村先生

私は本当の川筋者に出会えました。


「仁義ある戦い」 杉山大二朗 忘羊社 2023. 2

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