貧困家庭の僕が大学院までいった話
はじめに
本書は研究者である筆者が、どのように大学院進学という多くの人が選択しない道を歩んだか、そこに至るまでの数奇な道筋を思い出せる範囲で記録したものである。これは筆者がどのような背景のもとに今の思想や研究内容に至ったのかを確認することとともに、今現在苦しみの中にある人に対してこういう解決策もあるということを示すために書いたものである。個人情報保護のために一部名称などを伏せさせてもらっているが、これは真実の物語である。
本論――ヒストリー
1991年4月1日、満開の桜の中、僕は生まれた。女の子なら桜と名付けられただろうが、男だったために淳と名付けられた。一応海外の人でも呼びやすい名前にしたという。幼少期の頃の記憶はあまりないが、神仏によく手を合わせる変わりものだが、人から可愛がられる子どもだったらしい。
僕の記憶で遡れるのは小学校入学前あたりからである。だからおおよそ1996年くらいだろうか。僕は川崎寄りの横浜で暮らしていた。家は古いアパートで、母と祖母がいた。母は僕が物心つく前に名も知らぬ父と離婚していたが、特に養育費などの請求をしなかったらしく、家庭は大変貧しかった。母と祖母は生活保護を受給していたらしく働いておらず、僕も幼稚園や保育園にいくことなく家で過ごした。だから小学校に入学してからは大変だった。なにせ初めての団体行動である。最初は馴染めず問題行動もしていたが、だんだんと友達もでき初恋らしきものもした。この頃一番好きだった科目は算数だった。暇さえあれば問題を解き、ノートを埋め尽くした。そのまま成長したなら数学者になったかもしれないが、そう平坦な道のりとはいかなかった。
まず母は短気な上祖母とそりが合わないところがあった。包丁を突き付けられた恐怖は今でも覚えている。また頭を怪我して救急搬送されたこともあったが、これも母が原因だと祖母は言っていた。そして母も祖母も金銭感覚においてどんぶり勘定なところがあった。旅行でお金を使い果たし(このころは景気よくチップまで渡していた)、水道も止められ、近くのガソリンスタンドかなにかの水しか飲めない生活が続いたことがあった。挙句アパートからも追い出され、近くの施設に移った。この施設をどのように呼ぶのかはよく知らないが、元々は単身者向けの施設だったらしい。その施設からは学校に通うことができず、かつての友人たちを施設の窓から見ることしかできなかった。
やがて祖母は1人で生活するようになり、僕と母は横浜市内のいわゆる母子生活支援施設に移った。しかし僕はその施設の子どもたちと馬が合わずいじめに合いやがて不登校になっていった。だが人間関係がすべてだめであったわけではなく、年下の女の子と親しくしたりもしていた。やがて母が住み込みの仕事を見つけ、祖母もつれて引っ越した。どこかの旅館だったと思うがよく覚えていない。そこでは僕は学校にもいかず引きこもりの生活が続いた。そしてまた祖母と母のどんぶり勘定によりお金がなくなり、何日も食べられない日が続き、やがて夜逃げをするようにその町を去った。夜逃げ同然だったので、思い出の品や写真1つ持っていくことができなかった。こうした幼少期の経験が、僕の執着心の強さを育んだように思う。持ち金が続く限りふらふらした後、また横浜市内の施設にもどることになった。
そこで僕は非行少年と親しくなり、いろいろと非行に走ったりもした。だが悪事はすぐにばれ、僕は悪事や非行はやめることにした。相方だった非行少年が今は改心しているのかわからないが、僕は改心した(つもりだ)。そして今でも毎日のように罪悪感にさいなまれる毎日を過ごしている。この罪悪感こそが僕を倫理学や道徳、宗教学、そして児童教育に関心を向けさせる原動力にもなってはいる。いるのだが、できれば今の子どもたちには自分がいつか後悔するかもしれないことをしないでほしいと願うばかりである。一度してしまったことは取り返しがつかないし、罪悪感は一生消えないのだ。
そうして僕は18歳近くまで過ごすことになる横浜市にある母子生活支援施設に入所した。ここでの生活も僕にとっては苦労と我慢の連続だった。まずお風呂が大浴場しかなく、男女入れ替え制で入浴する必要があった。僕はその入浴システムに適応できず、入浴ができない日々が続いた。この入浴の問題は大風呂からシャワーに変わったことや、たまに銭湯に連れていってもらったことで少しは改善したのだが、水虫に感染したりと苦労の絶えない日々だった。
また泥棒騒ぎも多々あった。僕の大事にしていたカードも何枚か紛失しており、盗まれた可能性もあったが真相は闇の中である。このカード紛失事件の際に1枚だけ残った激レアの「ラーの翼神竜」のカードを母が握りつぶしてしまったことは今でも恨んでいる。なので「ラーの翼神竜」がヤフオクとかに出品されているとつい買ってしまう今日この頃である。
さてそれはそれとして、このころの僕は引きこもり、物を捨てられない、睡眠時間が安定せず定期的に昼夜逆転をしてしまう、幼児退行する、大切なぬいぐるみを持ち歩かないと落ち着かないなど精神的な異常行動のオンパレードだった。だが優しい保健室の先生と理解ある小学校のおかげで少しだけ保健室登校もできた時期でもある。また多少いけない日もあったが、ときどきカウンセラーのもとで遊戯療法も受けていた。しかし小学校の卒業式に参加することは叶わなかった。
ただこの母子生活支援施設で過ごした小学生時代にある1冊の本と出会ったことはその後の僕の人生に大きな影響を与えた。それが『盲導犬クイールの一生』である。何度も読んでは涙し、映画も観に行った、盲導犬とその訓練士に興味を持ち、何度か日本盲導犬協会に見学にいったし、しばらく賛助会員にもなっていた。ただ盲導犬訓練士は犬より人が好きでないと向いていないという話や、盲導犬は必ず去勢を受けるという点がとても引っ掛かり盲導犬の訓練士になることはなかった。
さてそんな中2003年に僕は市立の中学校に入学するが、結局一度も通うことはなかった。勉強に関しては母子生活支援施設の職員であるM氏(スポーツマンタイプ)が見てくれていたが、それほど本格的にやることはなかった。僕はM氏のことを父や兄のように慕っていたが、彼も職場を去り今は音信不通となってしまっている。
そんな問題だらけの状態で中学を一応卒業したわけだが、当然高校など入学することはできなかった。ただM氏から大学にいけば少なくとも社会に出て働き始めるのを遅らせることはできると入れ知恵をされていたので、大学にいくことには少しだけ興味があった。中学に入学したころからマンガ以外の色々な本も読み始めていた。生命倫理学や心理学の入門書だったり、竹内基準を作った医学者竹内氏の『脳死とは何か』や、そして細木数子先生の六星占術の本を読んだりした、このころから僕は細木先生の著作の影響もあり、脳死・臓器移植に懐疑的だった。
さてそんな僕も18歳が近づき、母子生活支援施設にいられるタイムリミットが近づいていた。しかしそのころの僕はどうしてもサラリーマンのような普通の職業には着きたくなくて、脳や心理の専門家になりたかった。だから最初は医学部を目指した。書店で、独学で医学部にいく方法について書かれた本を購入し、今から高校へ入るよりも「高等学校卒業程度認定試験」(以下、高認)に合格した方が早く大学にいけることも知った。だからまずはこの高認について調べた。旧大検よりも簡単ということもあり、専用のテキストを買い揃え、マンガで学ぶ○○みたいなのを副教材で用意した。M氏の後任のK氏の助けも借りながら、独学で中学レベルの知識を頭に詰め込んだ。
最初に試験を受けたのは2009年から2010年の始めくらいだったと思う。国語、英語、世界史A、数学、日本史A、生物、地学を当時受験した。ちなみに地学はK氏の勧めで受けたものだった。結果的に英語と地学が不合格。この2つはどうにも苦手だったのだ。英語は必修なのでとにかく勉強して詰め込みつつ、苦手な地学は切り捨て(K氏には少し申し訳なかったが)、得意の生物が出題される理科総合に変更した。ただ理科総合は生物以外に物理、化学、地学から問題をもう1つ選ばなければならなかった。苦手な地学と自習ではわかりにくいと聞いていた物理を切り、化学をやってみた。やってみると化学式の計算などは意外と楽しく、2回目の受験で理科総合はらくらく合格。英語もなんとか合格した。
それが2010年の夏のことである。僕はそのままの勢いでセンター試験の問題に取り組み始めた。マンガで学ぶセンター試験のようなシリーズと黒本などを頼りに勉強を進めた。当初の僕の狙いは防衛医科大学校だった。学費がかからないのが魅力的だった。自衛隊が主催するイベントにもいった。だが医学部では動物実験がつきものだ。しかし僕の中の倫理観は動物実験にあまり良い感情を持っていなかった。なので次に目標となったのは心理学、哲学(倫理学)、宗教学だった。ただ立正大学のオープンキャンパスなどに出向いていろいろと話を聞くと、どうにも心理学というのは心そのものよりも、統計データを見る学問らしいと知った。それは自分のしたいことではないと思った。だから心そのものを考察できる哲学と宗教学がより魅力的に見えた。
そして冬が来てセンター試験を受験した。得意の倫理を含めあまり良い点数は取れなかったが、現代国語だけ97点をたたき出していた。このセンターの成績で入れて、哲学・宗教学ができ、学費も安く、奨学金の多い私立の大学を探し、僕はT大学に願書を送った。結果は合格。入学が認められた、しかしここからがまた大変だった。まず入学金の用意と大学に入る上での副保証人が必要だったからだ。
入学金に関しては審査の比較的緩い地方銀行の学費ローンを見つけ、母に組んでもらった。ただこちらも連帯保証人が必要だったらしく、母子生活支援施設の施設長が連帯保証人になってくれたことを後に知った。そして大学の副保証人にも施設長がなってくれたため、無事に入学することができた。それが2011年。震災の年であった。
入学を果たした僕は引っ込み思案でコミュ障な性格を直そうと積極的に活動した。たくさんの講義を取り、先生に質問し、いろいろなイベントに参加した。また借金形式になる奨学金は借りていたものの、それだけでは生活は苦しく夜勤のアルバイトをしながらも高い成績をキープし、贈与奨学金をもらえるよう努力をした。だが面接の苦手な僕は最初の奨学金は逃してしまった。このころから学問を究めて学者になりたいという気持ちもあったので、大学院に推薦してもらえるよう高い成績をキープしたいという目標が増えた。
そうして3年生になった僕はダ・ヴィンチ・コードの影響もあり、マグダラのマリア研究をしたいと考えていた。そのためにマグダラのマリアの聖地であるフランスについて知るためフランス語の講義まで取っていた。
だが指導教授になったM先生からは「抑圧された女性の権利の復権」のような形でのマグダラのマリア論を男性の身でやるとフェミニストにボコボコにされるし、かといってマグダラのマリアについて書かれた異端の古文書を読むためにコプト語を独学で勉強するのも難しかろうと指導され、もう1つのライフワークだった脳死・臓器移植で卒論を書くことにした。
そのためフランス語の勉強は無駄になってしまったのだが、フランス語のU先生は気さくな方だし、U先生のお弟子さんであるA先輩とも仲良くなれたので受講してよかったと思っている。大学時代の友人とはほとんど連絡が途絶えてしまったが、このA先輩とは今でも友人関係を続けている。結婚観や好きなキャラや嫌いなキャラの価値観は違うにもかかわらず7年近く関係が続いているわけだが、これは僕にしてはかなり珍しいことだった。
ただこの3年生の間も決して楽な生活ではなかった。母が働けなくなったのだ。そのため学費用の僕の貯金を生活費などに充てなければならなくなり、今度は学費の支払い期限を延ばしてもらうことを強いられた。このままでは経理除籍(中退という経歴も残らない退学処分)になる寸前で、困窮家庭向けの大学の奨学金を勝ち取ることができ、首の皮1枚でつながることができた。その後は無事に卒論も提出し、大学院への推薦入試にも合格し。2015年に僕は大学院生になった。
大学院生になると借金の奨学金も増額されるし、素晴らしい業績を残せば借りていた奨学金の返還が免除されるというおまけもついていた。だから生活は楽になったし、返還免除という新たな目標もできた。また新しいアルバイト先では遠方への出張も多く、見分を広げることもできた。しかし卒論の出来に納得していなかった僕は修論をどうするか常に頭を抱えていた。そんなときに読んだのが早稲田大学の森岡正博先生の博論『脳死概念における人格性と尊厳の哲学的研究』だった。この論文ではこれまでの日本の脳死・臓器移植の議論をまとめ「関係性指向アプローチ」という視点を提供していたのだが、それが実際の法形成の議論の中でどう重要視されたかを森岡先生はあえて研究されていなかった。だから僕はその部分を埋める研究をすることで修論を書き上げ、そのあとの学会発表も乗り切ることができた。また大学院修了間際には助手として研究チームにも加わっていた。こうした成果は確かに評価され奨学金の全額返還免除へと繋がった。
本当はそのまま博士課程に進みたかったのだが、博士課程にいくには語学力とお金に不安があったし、博士課程にいくまえに社会人経験がある方がのちのち有利という話も聞いていたので、僕は畑違いのSEとして仕事をすることにした。
まったくの畑違いでサポート役の主任もあまり頼れない中、独学で仕事をこなしていった。また部署変更、リーダーとの対立、リーダーが病気で辞めたためになあなあでリーダー代行をするといっためちゃくちゃな環境での仕事が3年ほど続いた。リーダー代理としてなにか権利やお金をもらえたわけではなかったが、問題まみれの現場に我慢ならず現場で様々な改革をした、それによってチームの残業は減ったし、一定の効果はあったと自負している。だがこの現場の環境改善は現場を見ていない上司には伝わらないし、会社に利益を与えるものではなかった。それゆえに僕は評価されないまま必死に働くという矛盾に晒された。そんな環境に僕の心身は悲鳴を上げ、とうとうドクターストップによる休職からの退職となった。
だから今はこうしてフリーライターとしてエッセイや論文を公開しながら博士課程にいく準備を進めている。仕事も大好きな研究と両立しやすいものを探しているところだ。僕がこれから豊臣秀吉のように天下を取れるのか、明智光秀のように無様に散るのかはわからないが、せっかく生まれてきたのだから、後悔ない人生を送りたいと思っている。
おわりに
ここまでつらつらと書いてきたが、貧困家庭出身の僕が大学院にまで行ったという非常に珍しい事例だと思っている。母子家庭を含め複雑な事情を持つ子どもが大学や専門学校に行き、夢をかなえようとすることには困難が立ちはだかる。貧しき者はより貧しく、富める者はより富んでいく。それが今の日本社会だ。最低限のセーフティーネットはあるが、それですらその存在を知らなければ利用できないものも多い。
だからこそ僕は自分の半生をこうして書籍の形で残すことにした。何でもかんでも思い通りにできた人生ではなかったけれど、社会のいろいろなシステムを調べ、どうにかこうにか大学院までいけた人間もいるのだということを知ってほしいからだ。
「信じれば夢は叶う」という言葉は僕の好きな『ウルトラマンコスモス』のテーマだが、現実社会はこの言葉をきれいごととして踏みにじるような残酷な世界である。でも僕のあこがれの人物である仮面ライダークウガの五代雄介は言っていた。「きれいごとだからこそ現実にしたい」と。
僕も同じだ「信じれば夢は叶う」、「諦めなければ夢は叶う」そんなきれいごとを僕自身が体現したい。そして家庭環境ゆえに夢を諦めようとしている現在の、そして未来の子どもたちに希望とどんな方法が現実的にあるかを知ってほしい。このエッセイを読んで少しでも希望が湧いたなら、どうすれば夢を叶えることができるか調べてほしい。今は図書館を始め無料でインターネットを使える環境もある。そしてインターネットには君の夢を叶える手がかりがあるはずだ。もしインターネットにそういったものがなくとも周りの大人に聞いてみてほしい。それでも駄目ならどうぞ僕に連絡してほしい。君の悩みに共感し、共に苦しみ、共に解決策を考えさせてほしい。
生まれは選べないけれど自分の生きる道は自分で決めることができるから……。
5月某日 深夜のホテルにて