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パンデミックとは何かを考える7つの小説

「役に立たないこと」を考える

 一度だけ、中学校の同窓会に出たことがある。大学院生のときだ。まわりはみんな就職していて学生はぼくだけでだったのだが、同級生のKに「大滝、お前だけが社会で何の役にも立ってないねんで」ということを言われた。酒の席だったのもあり、そこは適当に自虐ネタにして流したのだけれど、生活において「知」とはなんなのだろうなと酔いが醒めてからずいぶん考えさせられることになった。
 当時、ぼくは熱力学やら流体力学やらそういうものを専攻していて、広い区分でいえば「工学」にあたるものの、実際にやっていたことといえば実用とは程遠く、素朴な自然現象への関心をモチベーションとした研究だった。漠然と「科学者」という響きに吸い寄せられて進学し、なんらかの「モノ」を作ることにきっとじぶんも興味を持つだろうと当初は楽観視してはいたのだが、学べば学ぶほど、作りたいのは具体的な「モノ」ではなく、理論や概念という抽象的なものだったと知るにいたった。文学に興味を持つようになり、小説をじぶんでも書きはじめたのはそんなときだった。
 しかし、旧友に「おまえはだれの役にも立っていない」と言われ、田舎特有の即物的な態度や正論として振りかざす「知」への欺瞞に対する苛立ちと同時に、社会参画に対する負い目みたいなものをえぐられた感触があったのも事実だ。Kはぼくの専攻や興味をなにも知らなかった訳ではあるが、労働と納税に関与しない営みに労力を割くのを道楽以外の何物でもないと考えている節があった。そしてぼくもまた、じぶんが多くの時間を割いて考えていることが、目に見えるかたちで社会に還元できるともおもえずにいた。数年後、けっきょく27歳まで続けた自然科学の研究をあきらめ、流れのままに物書きになったいまもなお、この答えは見つかっていない。

 2019年12月に中国・武漢市で新型コロナウイルスの発症例が報告され、瞬く間に日本を含むアジア諸国に広がった。そしていまやヨーロッパや北米などを巻き込んで世界的なパンデミックとして、日々我々の想像を超える大きな混乱を伴って拡大を続けている。人間の直接的な生き死にとどまらず、政治や経済活動にも致命的な影響を与えているのはもはやいうまでもない。外出が制限され、休業を余儀なくされるケースも多数現れた。経済体系そのものに生じた大きな変化は、これまで当たり前だった生活が奪われるという不安を掻き立て、大きなストレスを与える。明日をどう生き抜くかという危機にさらされるひとだって少なくない。
 安定した生活が損なわれるかもしれないというこの不安は、人間から創造力/想像力を奪う。たとえば物書きについていえば、傑作と呼びうる文章作品を残すために一種の極限状態の経験が必要だと主張するひとをたまに見かけるけれども、実際に腰を据えてものを書くならば、長期的に創作と向き合えるだけの環境が必要だとおもう。生活の危機がかかった極限状態において、その渦中にあるとどうしても近眼的な視野になる。今月、今週、今日一日をどう乗り切れるかという差し迫った状況への思考に多くのリソースを奪われ、思考は浅く短絡的にならざるを得なくなる。仮にそうした極限状態が作品として還元されるとするならば、それは嵐が過ぎ去ったあとだだろう。わたしたちが経験した大きな危機がいったいどんな意味を持っていたのかを認識するためには、それを深く見つめられるだけの時間と静けさが必要なのではないか。ぼくはそうおもう。
 文学がもたらす「知」は、経済社会に具体的で直接的な恩恵を与えてくれるものではない。もしかしたら、人間それぞれがそれなりに満足した人生を送るためには必要ですらないかもしれない。ただ、経済システムの機能が十全とはいえない現在だからこそ、非経済的ともいえる文学がなしうることは顕在化されるのではないか、ともぼくはおもう。これはパンデミックの影に脅かされた日常に疲弊するなかに幻視した希望的観測でしかないかもしれないが、しかしかつて言われた「役に立たない」ということばをいま一度、深く考える契機だとも感じる。
 今回は、こうした現状だからこそ手にとってもらいたい小説を7作品ピックアップした。

パンデミック小説の文法──『ペスト』、『フラミンゴの村』、『ブラッド・ミュージック』、『白の闇』

歴史を振り返ると、世界規模の感染症の流行はたびたび繰り返されてきた。なかでも14世紀ヨーロッパで猛威をふるったペストと、19世紀に世界的に流行したコレラは特に規模の大きなものであり、文学作品のモチーフとして取り扱われた。

 その代表的な作品としてアルベール・カミュ『ペスト』が挙げられる。すでにインターネットでも、今回の新型コロナウイルスによるパンデミックとこの作品を対比した言及が複数見られ、書店でこの作品を手に取ったというひとも大勢いる。
 ぼく自身もこの機会にパンデミックを扱った作品を読み返してみたが、そこにはひとつの構造的な特徴が見られた。
『ペスト』では最初は玄関先に転がっていた一体のネズミの亡骸からはじまるように、物語のはじまりはある個人の生活の1コマに起きたちいさな異変だ。そしてその異変は少しずつ生活のなかに蓄積されるように緻密に描写されながら、ある地点で臨界点を踏み越え、世界をまきこ巻き込むパンデミックとなる。フェーズに入ると物語開始時の中心人物から語りの視点は離れていき、個人視点三人称から神視点三人称に移行するかのように視野を広げる。パンデミックと物語の視野の爆発的な広がりの速度が共鳴し、世界各地で起こる混乱と叫びが一筋に束ねられ、それこそ手がつけられないほどに読者を圧倒する力をふるうに至る。
 このモチーフを持つ作品においてなにより特徴的なのは、リアリティと寓意の混交だ。現実世界でのペストの流行はカミュが手掛けた20世紀中頃よりはるか過去の14世紀であり、作品の時間と現実の騒動の時間の隔たりが『ペスト』という作品に大きなフィクション性を与えている。しかし、この作品がリアリティを失わないのは徹底して記録的な記述を採用していることが考えられるだろう。作中に記録者が配置されていることも、この効果を高める要素として作用している。

 一方で、日本の現代作家である澤西祐典『フラミンゴの村』を『ペスト』と比較すると興味深い発見が得られる。この作品では、19世紀ベルギーのとある村で女たちが突如フラミンゴに姿を変えるというフランツ・カフカ『変身』が集団的に発生するという事件が起こる。
 本作でもまた『ペスト』と同様に事件の記述者が作中に配置されているが、こちらは対照的に事態の記録が積み重ねられることにより作品が持つ寓意が強められていく。両者にはモチーフに「現実に発生した疫病」と「現実に起こり得ない事象」という差異が見られるが、小説という特殊な空間の構築に注目してみると、実はこの差異など些細なものにすぎないのではないか、という感覚にとらわれる。優れた小説には、そこに書かれた文章により張られた空間でのみ有効な思考を実現させる力があり、『ペスト』にしろ『フラミンゴの村』にしろ、これらの作品に配置された記述者は紙面のこちら側とあちら側の世界の狭間に立ち、リアリティと寓意を調律する者として存在している。

 また、「世界」という巨大な存在を描くジャンルとして重要なのがSFだ。知性を持った細胞が引き起こすパンデミックを描いたグレッグ・ベア『ブラッド・ミュージック』もまた先に挙げた作品と一緒に読んでもらいたい1作である。
 本作は、企業所属の科学者ヴァージルがヌーサイトと命名した細胞を作り出すことからはじまる。そしてかれはヌーサイトをみずからの体内に注射することで研究所の外に持ち出すのだが、事態を深刻にとらえた友人エドワードによって殺害されるのを起点としてパンデミックに発展する。ヌーサイトは寄生した人間に語りかけ、身体の変化を促し、人間を死に至らしめる。
 この小説は『ペスト』などのように記録的な筆致ではなく、むしろエンターテイメント映画のように描かれるが、やはり例によって、中盤から急速に視野は個人から世界全体へと広げられ、パンデミックを軸とした複数の物語へと拡散していく。パンデミック作品の多くは、その元凶となる病原体ないしウイルスは唐突に現れた不条理を象徴する物質的な存在として無機質に扱われるが、『ブラッド・ミュージック』ではかれらの声が人間に作用する。こうしたことへ踏み込んでいけるのはまさにSFならではといえるだろう。ヌーサイトを介して人間はサイバーパンク的な世界に触れるが、同時代にウィリアム・ギブスン『ニューロマンサー』が発表されている点もあわせると、小説が描き出せる空間を考える上でのターニングポイントとして読むことができる。

 最近文庫化されたジョゼ・サラマーゴの長編『白の闇』は、突如として人間が外傷なく視力を失うという病が流行する物語で、失明を発症したひとたちは隔離され、そのなかでコミュニティの形成や崩壊の様子などが綴られる密度の高い文体に大きな特徴がある。リアリティに根付いた筆致でありながらもしばしば本作が「寓話的」と評されるのは、語りと作品世界の距離にある。この小説の語りからどこか地球のはるか遠くから人間の活動を観察しているような遠さを感じるひとつの理由に、人間から固有名が剥ぎ取られ、その活動や特徴によって便宜的に与えられた呼び名で指し示されることがあるだろう。
 また、本作が徹底して見える/見えないにコミットしていることも文体に影響していて、この小説の語りはとにかく強力な視力により成り立っている。人間たちの行動の詳細のみならず、身体の内側にある感情や思考といったかたちのないものまで、その視力はとらえていく。
 そして『白の闇』もまたひとが死ぬ小説ではあるが、他のパンデミック小説と大きく違う点は、疫病そのものに殺傷能力がないということだ。奪われるのは視力であり、生命ではない。不条理に見舞われたとしても生きていかねばならない人間たちでこの小説はひしめいている。

情報、社会、わたしの関係──『パニック』、『彼女の体とその他の断片』、『競売ナンバー49の叫び』

 以上では疫病の発生から世界への拡散を枠組みとしたパンデミック小説のモデルとなる作品を紹介した。ここではパンデミックという現象を参照することで世界像がより鮮明に立ち上がるだろう作品を3つ取り上げたい。

 開高健の短編『パニック』は、『ペスト』と同様にネズミを起点とする騒動劇だ。ネズミの大量発生により野山や田畑は甚大な被害を被り、事態の拡大にともないありもしない疫病の噂が広まり、そしてこの噂が引き起こす混乱はやがて政治抗争をも刺激する。ただ、この作品はどこか不条理とはいえない感触があり、それが開高健らしいアイロニーを生んでいる。ネズミの大量発生は作中で原因が特定されており、その処置を放置したり、他人に責任になすりつけたりすることで混乱が大きくなっていく様子が描かれている。そうとらえると、この小説で起こっているのはどれも起こるべくして起こったことに見えてくる。虚構を纏いながら増殖・拡散していく情報の群れは、ひとびとを飲み込み、ときに社会と呼びうる構造を破壊しさえする。もちろん現実に起こる出来事は往々にして特定のひとつの要素によってなされるのではなく、雑多な事象の複雑な絡み合いの末に引き起こされる。しかし、その要素のひとつに、決して不条理とは呼べない明らかな過失が含まれているというのも多くの場合において事実である。

 虚実入り乱れた情報が大量に出回り、ひとびとが信じるべきものを失っていく現象はしばしば「インフォデミック」と呼ばれ、『パニック』で描かれた騒動もまたそのひとつに数えられるだろう。情報の錯綜、そしてその背後に見える像の真偽について徹底的に取り組んだ作家として真っ先に思い浮かぶのはトマス・ピンチョンだ。
 ピンチョンの中編『競売ナンバー49の叫び』は特にキャリア初期でかれがこだわった「パラノイア」について、もっともわかりやすく書かれた作品だ。
 ピンチョンは物語の意味について極めて自覚的な作家だ。かれの作品では大量の情報と文脈を断ち切るような雑多なエピソードの群れで構成されるが、それがひとつの小説として成立してしまうのはその物語に立ち会う人間に想像力があるからだ。作品という体系のなかに起こるエピソードとエピソードには必ず文脈があり、それを物語として認識した者たちはその空白になんらかの像を見つけ出してしまう。
 こうした補完的な想像力を駆動力として世界がその射程を無責任に広げてしまう現象を、おそらくピンチョンはパラノイアと呼んでいる。処女長編『V.』や本作『競売ナンバー49の叫び』、そしてポストモダン文学の金字塔である『重力の虹』は、そのパラノイアを象徴するものを巡る冒険譚だ。物語、ひいてはみずからの人生の意味はそもそも存在するのだろうか、そしてそれがあるとするならばわたしたちに良くも悪くもなにをもたらすのか──ピンチョンはインターネットが登場するはるか前に、膨大な知識と破格の想像力を武器にそれと徹底的に戦った。

 最後に紹介するアメリカの若手作家カルメン・マリア・マチャドの短編集『彼女の体とその他の断片』は個人と世界の関係性の描き方について、これまでに取り上げた作品と大きく異なっている。この短編集にも性体験のクロニクルのなかに疫病による終末世界が立ち上がる「リスト」(※これは「疫病から逃げる」という意味で『デカメロン』的な視点の作品かもしれない)や、女たちの体が消えていく「本物の女には体がある」など、パンデミック現象を扱った作品も含まれるが、作品が指向するベクトルは上述したものとは逆だ。ひとつの事象が世界に向けて解き放たれ、増殖と拡散を繰り広げるのではなく、マチャドの作品では個人の営みのなかへ外部世界が忍び込んでくる手触りがある。なによりも先にわたしがいて、体があり、そして関係性がある。それらを前提としてあとから性別、思想、世界とよびうるものが形作られているように感じられ、それゆえに社会に存在しうるだろうステレオタイプはあらかじめ解体されたかたちで姿を見せる。こうした成り立ちにより輪郭を帯びるのが「わたしがここに存在している」という揺るぎない事実だ。わたしという存在が世界と等価に並列するビジョンが静謐な文体でありながら強く打ち出されている。

小説は「役に立たない」のか?

 以上、拡大を続ける感染症による混乱、錯綜する情報、そして複雑化する社会や個人のありかたを背景として7作品を紹介した。これらの作品は現在進行形で現実に起こっている出来事と直接的な関係性を見出だせるものもあれば、抽象的な次元で何らかの示唆を得られるものも含んでいるのではないかとおもう。
 しかし切迫した現状を見ると、それこそぼくが考えていることなどかつて同窓会で言われたように「ひとの役に立つものではない」のかもしれない。それについての明確な答えをいまここで出すことはできないけれど、差し迫った状況において真っ先に奪われうるものとして、「視力」が挙げられるだろう。目に見えるものだけではなく、見えないものを見る力だ。それはひとつ認識を誤れば悪夢と区別のつかないパラノイアになる可能性すらあるが、文学作品として結晶化した「知」に触れることで、少なくともいまじぶんがいかなる視力を有しているかを知ることはできる。
 小説には小説のなかだけで考えられることがある。
 そして小説の力を借り受けて考えられることは、自らが潜在的に抱いていた違和感であり、決してことばにできなかったものたちでもある。
 そうしたことと向き合うことが、何らかの価値を持つことを信じたい。

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