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【#理系の読み方 第2回】小説を発見する──カフカ作品をどう読むか? 後編

文〝芸〟とはなにか?

 前回はカフカの短編小説『変身』を題材に、自然現象と小説の類似性についてのお話をしました。
 「似ている」というのはなかなかバカにならなくて、たとえばAとBという、互いに異なる事象があったとして、おなじ方法論で分析できるケースがあります。「アナロジー」と呼ばれるものですね。いつも使えるわけではありませんが、自分がうまく思考できる範囲に物事を引きつける際に有効な手段です。もっとも、小説の「隠喩」を一般化するとアナロジーの技術に分類されるかもしれません。
 よく言われることで、小説だけでなく他の芸術や学問に取り組む際、まずはひとつ自分の得意分野を作ることが推奨されます。我が家の話すると、長男と長女が将棋教室に通いはじめたのですが、「まずはひとつ得意戦法を作りましょう¹⁾」と教わりました。つまり類似性を使った推論・検証ができる状態になってやっとスタートという感じなのでしょう。
 芸事は、自分なりにひとつの体系を作ることで上達します。そこには大きな幹と無数に枝分かれした細部があって、〝芸〟とは何かひとつを指すわけではなく、それらが作り上げる「全体」です。まず幹を持つことが必須で、だけどある程度上達してくると幹だけでは単純すぎるし、細部ばかりだと厚みや深みが伴いません。意識を向けるべきなのは両者がどのように接続されているかであり、日々の練習をいかに〝全体〟に関連づけていくかが基本的な考え方になります。
 前回ぼくが口走った(!?)「小説を解く」という概念ですが、それは〝芸〟としての小説を基礎としています。そこで〝芸〟とは〝体系〟であるといったんざっくりと述べたわけですが、難しいことに表現する側と鑑賞する側で〝芸〟の認識がズレている──というよりは、〝芸〟という対象を分析する上で、どの視点から見ていくかで問題が変わってきます。

 というわけで今回はフランツ・カフカの長編小説『城』を題材にこのことについて考えてみましょう。

1) 周りを見てから行動するタイプの長男は四間飛車+美濃囲い、喧嘩上等で自己主張の強い長女は蟹囲い+棒銀を好んでいる。

「作者の意図・主張」なんて本当にあるのか!?

 小説を読めば大なり小なり、なんらかの感想はでてきます。しかし、そこで大きなノイズになるのが「作者の意図・主張」というものです。子どもの頃、国語のテストではこれを答えさせる問題をよく解かされ、当時から「文章には意図・主張がなければダメなのか?」という問題をぼんやりと抱いていました。
 しかしこの疑問は自分で詩でも小説でもなんでもいいのでひとつ作ってみればすぐに解消します。別に要りません。ただ、あったほうが良いタイプの散文作品というのはもちろん存在します。
 世の中には「小説を書いてみたいけれど書き出せない」という方がたくさんいます。そして書けない理由を聞いてみると「書きたいことがない」とおっしゃられます。ぼくはこれがわりと不思議で、ぼくなんかは「書きたいこと」なんて特にないタイプの書き手です。世間に対して主張したいことなんてないし、現代社会のひとつのモデルを提示してやろうとも思わない。だけど、「こういう形式の小説を書いてみたい」みたいなのはたくさんあって²⁾、物語のなかで現れる「意味」のほとんどは書きながら見つけたもので、事前に用意していた「主張」ではありません。
 前回の『変身』では、寓話的想像力に富んだカフカの物語が隠喩として意味を持ちうる読み筋があると指摘しました。しかし、とうの本人がどこまでそれに自覚的だったかは知るよしもありません。
 小説の読解の難しさはここにあって、「作者の意図・主張」なるものははたして本当に存在するのでしょうか? あるいは、読者が「作者の意図・主張」なるものを読めてしまうのはいったいなぜなのでしょうか?

2) 主張はないが意図はある、ということなのだろう。

小説は「発見」するもの?

 そもそもこうした問題は、小説本文(テクスト)と対峙する前からすでに始まっています。ここで読んでもらいたいのが以下の文章です。

「よくああ無造作にのみを使って、思うようなまみえや鼻ができるものだな」と自分はあんまり感心したから独言のように言った。するとさっきの若い男が、
「なに、あれは眉や鼻を鑿で作るんじゃない。あの通りの眉や鼻が木の中に埋っているのを、鑿とつちの力で掘り出すまでだ。まるで土の中から石を掘り出すようなものだからけっして間違うはずはない」と云った。

 夏目漱石の『夢十夜』より「第六夜」のお話です。運慶が木彫りの仁王像を作っているところを見ていて、その手際に感心していると横にいた若い男がこんな説明をしました。この話を聞いて語り手は自分でも彫刻ができるような気になり、家に帰ってさっそく薪を彫ってみるのですが、どうにも仁王が見つからない。
 もうひとつ読んでみましょう。

 全ての可能な文字列。全ての本はその中に含まれている。

 こっちは円城塔『Self-Reference ENGINE』(ハヤカワ文庫JA)の書き出しです。円城さんの読者さんには伝わるかと思いますが、彼の後の作品群から考えると最初の著書の書き出しとしてこれ以上のものはありえないと言えるくらいの名文です。
 この一文は物理とも関係が深い表現と読むことも可能です。物理とは、「系」と呼ばれる考察対象の状態を調べる学問です。この「状態」ですが、質点系³⁾の解析力学では位置と運動量で決まります⁴⁾。ちょっと用語が多くなってしまいますが、この位置と運動量を座標軸とした空間を「相空間」と呼び、「状態」とはこの相空間での配置と解釈できます。そして「状態の遷移」は相空間内をどう移動するか、どんな線を引けるか、という軌跡の問題になります。
 ここで話をわかりやすくするために、相空間というものを一枚の紙だと思ってください。そしてこの紙を鉛筆で塗っていく作業を考えてみましょう。ちなみに一度紙に鉛筆をつけたら離してはいけません。この作業をずーっとやり続けると、いつかは紙を隙間なく塗り潰せるはずです。この比喩を元の相空間と状態の話に戻すと、「(系は)無限に長い時間があれば可能なすべての状態をとることができる」と表せます。ざっくりした説明ですが、これはエルゴード仮説という名前で物理系のひとに知られています。
 ここでピンときたひともいるのではないでしょうか? 「全ての可能な文字列。全ての本はその中に含まれている。」という書き出しは、エルゴード仮説と重ねて読むことができます。「本」とは文字列が取りうる状態のひとつで、それは文字列という空間の一点です。ちなみにこの巨大な空間を「バベルの図書館」と呼んだのが、かの有名なボルヘスです。
 さて、夏目漱石と円城塔を読み比べてみましたが、ともに彫刻や本という創作物が「作り手の中から生み出された」という感覚では扱われていない点で共通しています。両者とも「すでに存在しているものを見つけ出す」という立場で、これは「作者の意図・主張」ありきで文章が書かれているという立場の真逆にあたりますね。
 結局のところ小説はどっちで書かれているんだ!? と混乱しそうですが、ここではひとまず以上の2つの傾向があることだけを押さえてください。

3) 質量と慣性モーメントだけを持ち、大きさを持たない要素。高校までの物理では質点系しか扱わず、理系学部の一年生で「大きさを持つけれど変形しない物体(=剛体)」の力学を学ぶ。さらに伸ばしたり曲げたり捻ったりの変形を考慮するのが材料力学である。
4) 熱力学のような分子集団を対象にしたものであれば温度など、前回に熱力学的巨視量と呼んだものがそれに該当する。

「わたし」と「他者」の混在

 ずいぶんと回り道をしましたが、ここまで検討してようやくカフカの話ができるわけです。
 前回カフカの『変身』に関して、作品の寓話的想像力を隠喩として捉えて「意味」を抽出するような読み方を行い、それを「小説を解く」としました。しかし、今回のここまでの議論は、そうした読み方に「ちょっと待ってくれ!」とストップをかけるものです。
 いきなり当たり前の話をしますが、小説を読んで、そこからなにを読み取ろうがそれは読者の自由です⁵⁾。ただ、それは同時に唯一絶対の読み筋だけが尊重されるわけでもないということで、「作者の意図」でさえ絶対的なものではありえない。カフカの『変身』がなんらかの「意味」のために書かれたにしろ、作者のテンションがブチ上がった勢いで書かれたにしろ、究極的にはどっちでもいいわけです。ただ、蔑ろにするようなものでもない。要するに、読書は自分ひとりで完結するものでもなければ、他人の話をただ聞くだけのものでもない。「わたし」と「他者」が混在していて、その濃度が「書き手」としての個性で、濃度のセンサーが「読み手」としての個性なのです。
 ややこしいので文芸作品(=一般化された文章技巧で書かれたテクスト)における「わたし性」と「他者性」をここで定義しておきましょう。

 わたし性:作品に対する書き手の能動的な働きかけ(=身体の内側から「出す」感覚)
 他者性:作品に対する書き手の能動的な働きかけの外部にあるもの(=身体の外側のものを「見つける」感覚)

 「わたし」の視点は書き手に置きました。ネットで感想や書評を読んだりするときは、レビュワーが対象作品の「わたし性」や「他者性」をどのような配分で読んでいるかに注目してみるとずいぶんと読みやすくなるのではないかと思います。

5) 小説の読み方に正解はないが、明確な不正解は存在することに注意。

カフカ『城』はどんな小説なのか?

 カフカの『城』は測量士Kがとある国を訪れるも、彼の雇い先である「城」にいっこうにたどり着けないという物語です。Kは遠くに見える「城」を目指すものの、役人にたらい回しにされ立ち入る許可が得られないまま、双子の助手に付き纏われ、女と関係を持ち、小学校に住み込んで小間使いになるなど、話がどんどん当初の目的とは違う方向へと進んでいきます。また、作品の外部情報にも目を向けてみると、この長編は未完で終わっています。これがなかなかおもしろいのですが、遠くに見えながらもたどり着けない「城」という長編が「未完」であるというのは、どことなく自己言及的です。ちょっと偉そうな顔をして「未完ゆえに完成された小説なのだ……!」と言いたくもなります。
 やはり『変身』と同様に現実世界とはまた別の世界のような雰囲気と言いますか、設定に寓話的な想像力を感じます。そして「見えているのにたどり着けない城」というのは、現実世界の不毛な労働に引きつけて「意味」を抽出することもできます。「クソどうでもいい仕事(ブルシットジョブ)」という言葉を思い出すと、100年以上前に書かれた作品なのにいま読んでも古さを感じません。
 モチーフを隠喩的に解釈して〝読解〟することもできますが、ぼく個人としてはたくさんある作中のエピソードを読むのは読者に「経験する」みたいな感覚を与えているように感じます。この小説のなかだけでしか成立しないリアリズムがあって、そこは意味や理解という枠内では太刀打ちできない。だからなのか、『城』という小説には凄まじい迫力があるし、何度読んでも肌がひりつくような感触が残ります。
 カフカはどういうつもりで小説を書いているのか、カフカ作品をどう読めばいいのか、なぜ古びないのか、超現実的な設定で独自のリアリズムを確立できているのはなぜか──知りたいことは色々ありますが、作家のミラン・クンデラが『小説の精神』(法政大学出版局、金井裕/浅野敏夫・訳)それを考える足掛かりとなる素晴らしい論考を残しています。

 私個人の 小説史では、カフカこそが新しい方向を、プルースト後の方向を開いたのです。彼の自我の考えかたはまったく思いがけないものでした。Kを他ならないKにしているものは何か。容姿ではないし(読者にはなんにも知らされません)、経歴でもない(読者は何ひとつ知らない)。名前でも(彼に名前はない)記憶でも好みの傾向でも固定概念でもない。彼の行動でしょうか。彼の行動範囲は恐ろしく狭いですね。内的思考でしょうか。ええ、カフカはKの考えをたえず追いかけるのですが、ただしその考えはもっぱら現状の状況に向けられています。いまここで何をすべきか。尋問に出頭しようかやめようか。司祭の召喚に応じるか否か。Kの内面の生はことごとく、彼がはまりこんでしまった状況にからめとられ、この状況をはみ出しているかも知れないもの(Kの記憶、観念的な考え、他人への思惑など)はいっさい読者には明らかになりません。プルーストにとって、人間の内面世界は私たちを感嘆させてやまないひとつの無限、ひとつの奇跡でした。しかしカフカの驚きはここにはありません。彼はどんな内的動機が人間の行為を決定するのかとは問いません。それとは根底的に異なる問いを提出するのです。外的決定要因が圧倒的に強くなった結果、内的動機の意味がもはやなくなった世界にあって、人間にどんな可能性が残されているのか、という問いです。

 ここでクンデラが挙げる「K」はおそらくまた別の未完の長編『審判』の主人公と思われますが、言及している内容は『変身』と『城』にも当てはまります。長々と引用しましたが、要点は「2つの力」があるということです。小説の登場人物は身体の内的な力か、外的な力かのどちらかで行動を起こします。プルーストは前者の力を駆使して非常に大きな業績を残したのに対し、カフカは後者──つまり身体の外から受ける力のただならなさを書いたという点で誰にも似ていなかったというわけです⁶⁾。

6) プルーストは登場人物の記憶や想起を駆動力として広大な時空間を小説の射程に収めた。一方でカフカの小説は非常に限定された時空間のなかで展開されていることにも注目すると非常に鋭い分析に感じられる。

カフカ作品はなぜ分子シミュレーションに似ているのか?

 さて、「登場人物が勝手に動き出す……!」という言葉を聞いたことはありますか? ベタ中のベタの「作家っぽい言葉」すぎるので、これを口にされている同業者を見かけると「ヤッとるな!」と思います。しかし、実作者として改めて考えてみると「そんなわけあるかい」と「わからんでもない」が混在している感じで、なかなか歯切れの良い事は言えそうにないです。
 登場人物はなぜ動くのでしょうか? 
 ここで物理を考えてみましょう。
 物理学の基本的な目的は「対象がいつ・どこに・どんな状態でいるか」を予測することです。物体は力を受けることで加速運動をし、受けた力を全部足し合わせてゼロになると等速度運動になります⁷⁾。速度ゼロの等速度運動は静止です。
 どんな力があるかについて、基本的には「目に見える物体から受ける力」と「目には見えないものから受ける力」があるとここでは覚えてください。前者は物と物が接触することで発生し、後者は重力・静電気力・電磁力などが挙げられます。
 問題を解くとき大事になってくるのが「どの力を考慮し、どの力を無視するか」の選択です。つまり近似ですね。たとえば、ぼくらは触れている物すべてから力を受けますが、常に気体分子に衝突されまくっているわけです⁸⁾。その気体分子から受ける力をひとつひとつ考えるのはダルいので、「均質な気体分子から等方的に衝突を受けている」とでも仮定します。すると力が釣り合ってゼロ、つまり無視できるとなるわけです。

 系を構成する要素があまりにも多すぎると手に負えません。なので考察を始めるときはできるだけ少ない要素で系を設定するのが基本で、要素を減らすには「無視する」「相殺する」「ひとつにまとめる」などの方法がよく使われます。先のクンデラは小説の登場人物の行動原理を「内的動機」と「外的動機⁹⁾」のふたつに分類しましたが、これは「ひとつにまとめる」を使ったテクニックです。細かい要素をざっくり「身体の内か外か」で分けてしまい、要素が少なくて使い勝手の良いモデルができました。粗いようにも感じますが、解像度を上げるのはこのモデルを検討してからでも遅くありません¹⁰⁾。

 生物は自らの意思を持ち、つまり内的動機によって行動を起こすことができます。
 しかし、この内的動機とはどこまで「自分の意思」と言えるのかは難しい問題です。たとえばめちゃくちゃ腹が減っているところにパンを差し出されると食べちゃいますよね。これは「食べたいから食べた」という自由意志に見えて、生理的欲求により「食べさせられた」のかもしれません。そして空腹状態が他の誰かによって仕組まれたものであれば、「パンを食べた」という行動は自らの意思で決定したものの、外的要因に引き起こされた行為になります。
 つまり「内的動機」と「外的動機」が混在しています。大事なのはどっちなのかではなく配分で、この場合は外的動機が支配的といえます。また、生理的欲求は自由意志というより生物であるがゆえに課せられたプログラムと捉えるならば、性質としては外的動機に近いといえるでしょう。
 いわゆる「鴨川等間隔の法則¹¹⁾」もこれと同じです。 前回の冒頭で「カフカは分子シミュレーションに似ている」と言いましたが、その理由はクンデラが指摘するように「登場人物が外的要因に駆り立てられて行動を起こす」からです。それは各人が多数の選択肢のなかから行動を選択する自由意志が損なわれ、プログラムに沿った行動を余儀なくされるシステムによるものと考えると、超現実的な設定や寓話的想像力などといったものは構造の成り立ちを考える上で装飾的な要素にすぎないのかもしれません。

7) 力はベクトル量、つまり向きと大きさを持つことに注意。高校生が物理に挫折するポイントでもある。
8) 19世紀の物理学では原子や分子の存在は実験的に証明されていなかった。そのなか、ボルツマンは原子・分子の集団的性質を基本思想とした統計力学を主張したのだが、その有効性について他の物理学者と激しく戦うこととなった。それに消耗したボルツマンは療養中に自ら命を絶ってしまうが、彼の死とほぼ同時にアインシュタインが「ブラウン運動」の論文を発表し、原子・分子の存在が実験的に証明された。
9) 引用ママでは「外的決定要因」。
10) 進んだ注:何事も最初は見栄を張らずに簡単なことから始めよ。著者はそれで幾度となくヤバい失敗をした。
11) 京都の鴨川では川に沿ってカップルが等間隔に並ぶという逸話。この現象はカップルそれぞれの個性から検討されているわけではない。「いい感じにしっぽりできる場所が欲しい」と「知らないひとと近いのは嫌」という生理から発生する現象で、これを分子間力のような心理的ポテンシャルと解釈すると、前回説明した通り分子シミュレーションでよくある問題と同じになり、平衡状態で一定の構造が現れるだろう予測は容易にたつ。

個と全体

 以上のように、「身体の内外」の問題は「個と全体」という問題とかなり近いものだと考えられます。そしてカフカは特に『城』という未完の長編で、個人の意志に対して外的要因=社会制度が行動決定に支配的な影響を与えるシチュエーションを描き出しました。環境が支配的な世界においてそこに生きる者の個性は抑圧され、制度に従った行動を余儀なくされる──結果、単純な分子シミュレーションに似てしまう。ひとまずそれが『城』についてのぼくの現状の感想です。『城』という作品で、語り手は常に測量士Kの言動を追い続けます。つまり、Kの現在についての記述だけが常に展開されるわけですが、そこにKという男の個性や実存はない。Kという個人について書いているはずなのに、彼を取り巻く環境の異質さがどんどん現れてくる。そんな倒錯した小説になっています。
 個と全体、というのは人文学だけでなく自然科学でも重要な視点です。古典力学¹²⁾と熱力学を比べると、原子それぞれの運動方程式には時間反転性があるのに対し、原子個々は見ずにその集団的性質だけを見る熱力学ではエントロピーが増大するという時間の不可逆性が現れます。
 統計的性質は個々人の特性を分類するわけではなく、個の単純な足し合わせが全体を説明するわけでもない。個と全体の関係は単純な対立ではなくもっと複雑です。両者に関係性は認められるのに、それを支えている概念がまるでちがっています。だから無理やり衝突させると決定的な食い違いが現れる。カフカ作品では「そうはならんやろ」と思わずツッコミたくなるようなユーモアでそれが出ます。主人公の一挙手一投足に身体の内外、あるいは個と全体のせめぎ合いがあり、状況がありえない方向に進んでいくほどリアリティが増していく──カフカ作品特有のかたちが、事前に用意された設計図ではなく、平易な文章を目の前に積み重ねることによって見つけ出される。この作家は最初の一文さえあればなんでも見つけ出せてしまうのではないかと思わされます。

12) ニュートンの運動方程式を支配方程式とした力学系。熱力学は原子・分子の個々の振る舞いではなく集団的性質を対象とするため、古典力学と発想が異なっている。

終わりに

 前後編に分かれて長くなりましたが、これでカフカの話はおしまいにします。結局はぼく自身の主観に偏った見解ではあるし、主張の正当性を裏付けるものもあるわけではない。「カフカ論」と呼ぶには脆弱ですが、ぼくがカフカを読んで熱力学や統計力学といった物理を連想せずにはいられない理由は説明できたと思います。
 すべての理系がそうだとは思いませんが、ぼくは「それがなぜこういうかたちをしているのか?」に興味があり、それはぼくが長く理系教育を受けてきたことと切り離せないのはたしかです。
 小説のおもしろさなんて挙げ出せばキリがありませんが、一番気になるのは「なぜ小説が書けるのか」という問題です。そしてこれは同時に「目の前の散文をなぜ〝小説〟と見做せるのか」と等価な問題ではないかと睨んでいます。

 というわけで、次回は円城塔『これはペンです』(新潮文庫)を題材に「小説のかたち」について考えていこうと思います

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