自己組織化する物語/トマス・ピンチョン「ブリーディング・エッジ」の話

 世界中で猛威をふるう新型コロナウイルス感染症により我々の生活スタイルは一変した。マスクの着用が当然のエチケットとなり、人びとが物理的に対面することが躊躇われ、インターネットを使ったコミュニケーションが企業や教育機関でも一般化した一方、しかし作家というのは日々の生活で目立った変化がないことにふと気づく。ぼくなんかはひとりで小説を書き、本を読み、メールで編集者とやりとりをしてたまに電話やSkypeやZoomで話をするという生活をコロナ禍以前から続けていただけに業務面だけを見れば変わったことなどほぼなかったに等しい。友人の作家はこんなことをいった。新型コロナウイルス感染症について何が変わったかを作家に問うみたいな場面をちょくちょく見るけれど、しかし仕事上大きな変化を受けにくい「作家」という職種の人間にどうしてそれを問いたがるのだろうか?
 もともと長期間他人とコミュニケーションをとらなくてもストレスを感じなかったぼくだったが、昨年度の夏頃に大きく心の調子を崩してしまった。原因はおそらく複合的なものだと考えられるが、そのトリガーとなったのは最初の緊急事態宣言だ。うちには当時四歳の息子と一歳の娘がいて、共働きゆえに保育所に預かってもらっていたのだが、このときの緊急事態宣言では保護者が医療従事者等の子ども以外の登所は自粛となった。
 勤めびとの妻も会社からおりてきた出社制限により在宅ワークが主となり、2LDKの四人暮らしにはやや手狭なマンションに四六時中一家が揃うという状況になるも、幼い兄妹が暴れ回る我が家で仕事などできるわけもなく、およそ二ヶ月にわたってぼくはじぶんの仕事を諦めた。執筆中の小説を中断し、読書をやめ、ひたすら子どもと向き合った。それはそれで穏やかで平和な生活だったともいえる一方、働かなければ当然収入が得られるわけもなく、経済的不安と文章を発表できず先の見えない不安が、じぶんでも見ないようにしていた〝なにか〟を増長させていくのをただ感じることしかできなかった。
 それからどうにか体制を立て直した冬のはじめ、詩人・最果タヒ氏からひとつの依頼を受けた。依頼メールにあったのは京大生協のブックフェアの案内で、京大出身の作家が「在学時に愛読していた書籍」を一冊紹介するという内容だった。
 このフェアの背景にあったのは、新型コロナウイルス感染症による京大生協の経営危機だった。大学授業のオンライン化にともない、ほとんど必然的に発生した赤字は3億円にのぼり、事態を深刻に受け止めた最果氏が企画したという。こうした状況は京大生協に限ったことではなく、また大学生協側としても作家や版元に依頼するのは躊躇われるのが現状であるため、こうした取り組みが全国の大学生協に良いきっかけをあたえるのではないか? と依頼文には添えられていた。
 そこでぼくが選んだ一冊がトマス・ピンチョン 『競売ナンバー49の叫び』(志村正雄訳、ちくま文庫)だった。工学研究科の大学院生のときに出会ったこの本は文字通りの意味で「ぼくの人生を変えた本」であり、理系学生だったぼくを文学というフィールドに拉致監禁したような作品だ。もともと理系であるピンチョンの作品は、そのトピックや構造に当時ぼくが専門としていた熱力学・統計力学からの影響が強くみられ、こうしたものが文学であるなら、ぼくが真に突き詰めたいことは文学にあるのではないかというパラノイアを生み出した。紹介文にはこう書いた。
 小説は広義の複雑系であり、自然現象。真っ当に理系をやるのに飽きたらピンチョンを読めばいい。おかげで学生時代のツケを払わされることになった。

二十一世紀にやって来たトマス・ピンチョン

 最新作『ブリーディング・エッジ』の舞台は二〇〇一年。9・11前後のニューヨークのおよそ一年の、ふたりの子どもを育てるシングルマザーがその根底に流れる邪悪な資本の流れを追う探偵小説仕立ての約六八〇ページに及ぶ長編作品だ。
 ピンチョン作品といえば雑多にして多岐にわたるトピック、夥しい数の登場人物、次から次へと現れては錯綜していく物語が特徴であり、例によって本作でもその特徴はみられるものの、過去作と比べて筋書きはすっきりしていて「読みやすい」。主人公のマキシーン・ターノウは会計調査を生業とする元不正会計士(資格を剥奪されている)で、知人よりある会社について調査依頼を受ける。その会社は「ハッシュスリンガーズ」というIT企業で、検索エンジンのクローラーが及ばないディープウェブに潜り込み、なにやら怪しい金を動かしていて、どうやらその金は中東にも流れているらしい。
 そこでキーとなるのがふたりのプログラマーによって開発された「ディープアーチャー」だ。それはディープウェブの奥深くにあるゲーム世界のようなサイバースペースで、開発者によるコンセプトは以下のように説明づけられている。

先見の明というのかどうか知らないが、この二人は、リアルな世界につきまとうさまざまな不快感から逃れるため、ヴァーチャルな避難所を創りたいと考えた。虐められ傷つく者がみんな集えるグランド・モーテルというべきか。キーボード一つで世界中から、ヴァーチャルな深夜急行に乗ってやってこられる場所。創作者の二人の間にはもちろん「方向性の違い(クリエイティブ・ディファレンス)」は生じたが、不思議なことに、それが意識されることはなかった。ジャスティンが求めたのは、時間を巻き戻したところ、現実には存在したことのないカルフォルニア。安全で、常に晴れわたり、ロマンティックな日没が見たい場合は別として決して陽が沈まない地。ルーカスは、何というか、もう少し暗くて、雨がちで、巨大な沈黙が破壊の力を内に秘めながら風のように吹きまくる場所を創りたいと願った。その二つが合体して〈ディープアーチャー〉の世界をなす。(p112)

 そしてかれらは、技術面においてディープアーチャーが「ブリーディング・エッジ・テクノロジー」として恩恵と危険(あるいは善と悪か?)両面を抱えながらも革新的である点を「その情報(筆者注:アクセス元の情報)がどこから来たのかを、受けた瞬間、永遠に、忘れる」と説明する。つまり、ユーザーの匿名性が守られながら誰もが共有された虚構世界にアクセスできるというわけだ。
 こうしてハッシュスリンガーズとディープアーチャーはディープウェブをキーワードに接近し、ハッシュスリンガーズはさらなる富を求めてディープアーチャーの買収を企てる。
 ディープアーチャーの「その情報がどこから来たのかを、受けた瞬間、永遠に、忘れる」という特性はロシアの無料通信アプリ「テレグラム」に似ている。このアプリには「やりとりの履歴が自動消去され、復元が困難」という特徴があり、それゆえに日本の特殊詐欺の連絡手段として悪用されている。ディープウェブを主戦場として不正に資本を流すハッシュスリンガーズがディープアーチャーを狙う理由はこれとほとんどおなじだ。
 そのさなか、二〇〇一年九月十一日にニューヨークのワールドトレードセンターに旅客機が激突する。
 作品の大枠は過去のピンチョン作品を踏襲していて、『ブリーディング・エッジ』はそうした意味で二〇世紀ピンチョン世界を二十一世紀にアップデートしたものだと読める。存在不確かな象徴的な存在を追うというミステリ仕立てのプロットはほぼ全作に共通し、主人公が依頼を受けて「探偵役」を引き受けるのは『競売ナンバー49の叫び』や『LAヴァイス』とおなじだ。特にマキシーンとホルストの夫婦関係は『競売ナンバー49の叫び』のエディパとムーチョの夫婦関係とも似ていて、「悪」を象徴するハッシュスリンガーズの創業者ゲイブリエル・アイスはエディパを遺産管理執行人に指名してこの世を去った億万長者ピアス・インヴェラリティと重なる。
『競売ナンバー49の叫び』を例に挙げて比較すれば、この世界での巨大なパラノイアは存在不確かな闇の組織「トリステロ」だ。遺産調査を進めるエディパに次々とやってくる雑多なエピソードは謎の組織の存在を象徴する切手コレクションによってたちまち接続されていき、その存在の確証を得られないまま邪悪な世界が膨張していく。この不気味な膨張は個人がどこでどのように存在していようとも、なんらかの悪意を含んだ世界から決して逃れられないような暴力性を孕んでいる。「個人が認知しうる諸現象が世界そのものになる想像力=パラノイア」として、メタファに代表される文学的想像力の善悪そのものを解体している。
 そしてピンチョンの代表的大長編『重力の虹』では、このパラノイアの構造が自然科学的に描出された。タイロンの勃起にともない発射されるV2ロケットが「世界の陰謀」たるパラノイアとして作品の軸にあり、その分析にポアソン分布やべき乗則など統計学や複雑系を背景とした知識が援用され、タイロンを置き去りにして矢継ぎ早に語られるエピソードの群れはそれらが堆積されるにつれて物語の真実を隠しながらもまた別の真実を自己組織化していく。また、登場人物のひとり、ジェフリー・〝パイレート〟・プレンティスは他人の夢のなかに侵入できる特殊能力を持っており、これはサイバーパンクのさきがけともいえる設定だ。「夢=他者の個人的な世界」への接続は、接続範囲の無限の極限をとることで「世界」に一致する──すなわち、巨大なパラノイアの構造を示唆しており、こうした世界観・世界構造は『ニューロマンサー』の作者ウィリアム・ギブスンなどに影響を与えた。
 トマス・ピンチョンが書き続けてきたパラノイアの構造は、時を経るごとに具体的になっていった。文学的なメタファという形式、自然科学的概念、歴史(偽史)──そして『ブリーディング・エッジ』では実在可能なテクノロジーがそれに該当する。それがディープアーチャーというインターネット世界だ。
 二十一世紀のトマス・ピンチョンは、存在不確かなパラノイアの暴露を超え、確かに存在するパラノイアとの戦場に立ったのだ。

「ラッダイト」の文学

 半世紀以上にわたるキャリアを考慮すると「寡黙」な作家であるピンチョンだが、一九八四年に「ラッダイトになってもいいですか?(Is It O.K, to be a Luddite?)」という文章のなかで自身の文学観を述べている。
 ラッダイトとは産業革命時に起こった機械打ち壊し運動であり、「文系」と「理系」の隔たりを最初に顕在化させたケースともいわれ、ピンチョンはこの文章のなかでこの問題を検討し、文学──「読書し、思考する」という行為──における「ラッダイト」とはなにかと問う。
 ピンチョンはラッダイト文学の例としてメアリー・シェリー『フランケンシュタイン』とホレス・ウォルポール『オトラントの城』を挙げ、得体の知れない「バットでビッグ」な想像力がラッダイトにおける「テクノロジー」への抵抗となり、それが超越的体験をもたらすだろうと主張した。この根底に流れるのはテクノロジー否定ではなく、世界とも呼びうるシステムへの反抗意識だ。ありえないことが起こる「バッドでビッグな想像力」はそのリアリティの乏しさから文学から文学と認められない時代があり、特にSFというジャンルはそうした想像力の疎開先になっていたとピンチョンは述べ、一種の理系的想像力や神話的想像力が文学から切断されることにより、「バッドでビッグな文学」が失われてしまうのではないかと示唆している。
 そして文学における想像力は「人間とテクノロジーの関係性」にも大きく影響しているとピンチョンは指摘する。かつて紙にペンを走らせ小説を書いていた作家たちがタイプライター、ワープロ、コンピュータへと道具を持ち変えていったように、時代を経るごとに前提とするテクノロジーは変わっていく。しかし、「人間と機械の使役関係」だけは根深い問題と残り、その懐疑心がラッダイト的な願望を生みだしている。これは単純な「人間V S機械」の対立が問題なのではなく、むしろ悪夢にも似た文学的なメタファや陰謀論、言い換えるならばピンチョンが書き続けてきたパラノイアへの対抗手段としてテクノロジーが位置づけられるという、ねじれをももたらす。正しいデータを正しく処理できる人間がテクノロジーの力を使うことで生まれる想像力だって存在する。ピンチョンが謳う「ラッダイト文学」とはそんなアンビバレンスな構造も抱えており、概念の内の複雑な構造が理系・文系をはじめとするあらゆるジャンルの境界を破壊し、世界に対して素手で殴り込みをかける「バッドでビッグな想像力」を実現させる盤石な基盤になっているのだ。

作家の想像力から独立して生成されるパラノイア

 これまでに何度も言及した通り、ピンチョン作品では「パラノイア」が執拗に主題として描かれ続けてきた。そしてそれは夥しい数の登場人物らによる無数のエピソードや物語が堆積することで自発的に構造化されているようにも読むことができ、それは『重力の虹』でも触れられたように、統計学的・複雑系的に立ち上がる像に似ている。大量のエピソードや物語をベースとして自発的に立ち上がる世界を展開した事例として、舞城王太郎による大長編探偵小説『ディスコ探偵水曜日』が挙げられるだろう。この作品は「全ての情報に意味がある」という強迫観念のもと、次から次に現れては推理を披露していっては殺されていく名探偵たちを礎に、間違っているはずの推理が正当化され、多世界化が加速する。名探偵たちがそれぞれにパラノイアを持ち寄っては共有し、私的な世界像の統合を通して巨大なひとつの世界になろうとする。
 ここで重要になるのは、ピンチョンや舞城のようなパラノイアの文学は、作家の想像力のみによって作り出されたものではないということだ。それは個人的な営みとしての創作だけではなく、あえていってしまえば小説という表現が原理的に持ち合わせている性質にも起因している。そこでまず、「物語」と「謎」の関係性に目を向ける。
 廣野由美子『小説読解入門』では、E・Mフォースター『小説の諸相』を引用しながら「ストーリー」と「プロット」の違いを示し、小説における「ミステリー」は「プロット」という文学要素に不可避的に含まれると主張している。

フォースターによれば、優れた小説とは、たんに次がどうなるかという読者の原始的な好奇心のみを刺激する「ストーリー」ではなく、出来事の配列を組み換えることによって深い意味合いを与え、読者に知性と記憶力を要求する高度な「プロット」の形態を備えたものである。したがって、「ミステリー」は、プロットの構成に必然的に伴う文学的要素だということになる。
(廣野由美子、『小説読解入門 『ミドルマーチ』教養講座』、p69)

 これは、小説作者にとって「ミステリー」をコントロールするための技術として「プロット」が位置付けられるのと同時に、何をどう語っても大なり小なりの「ミステリー」が生じてしまう可能性も示唆している。つまり小説創作には「書き手の意思に駆動される想像力」と「小説というシステムに駆動させられてしまう想像力」が存在する。
 後者について、これはピンチョンが特に初期に作中でよく言及した熱力学・統計力学・複雑系と馴染み深い現象に例が見られる。計算科学の分野で二〇世紀に大きな功績を残した数学者アラン・チューリングは晩年、「チューリング・パターン」として知られるパターン形成の研究をおこなった。チューリングの関心はトラやヒョウ、キリンなどの動物の表皮の模様がどのように形成されるかにあり、彼はそれを簡単な数理モデルによって説明を試みた。対象系をセル分割し、色素の活性化因子と抑制因子の拡散現象をシミュレートし、このとき活性化因子は増えるにつれて抑制因子を生成し、また抑制因子は活性化因子の増加を抑えるという条件がつけられている。すると、諸動物に見られるような縞模様や斑点模様の出現が確認され、それはセルとセルのあいだに設定された活性化因子と抑制因子の透過比率にのみ依存するという結果が得られた。特筆すべきは、この研究では遺伝子をはじめとする生物学的な要素を一切含んでいないということだ。従来、生物学では遺伝子が生物現象のすべてを支配するという発想が一般的だったが、チューリング・パターンによって非生物的なシステムが生物現象に寄与している可能性が指摘された。
 この例で遺伝子が担う生物学的挙動を「作者の意思」、数理的に生じる非生物的挙動を「プロットにより不可避的に生じるミステリー」と置き換えてみると、「小説」という表現がどんな構造をしているのかを考察する手立てになる。
 フォスターを参考にすると、そこに文章があれば「次は?」を読者は想起する。そして文章が連なるとその配列から「なぜ?」を読者は想起する。そうして読者は空間に配置された任意の点を結ぶようにして小説の全体像の把握につとめるが、そこに作者はどう関与するのだろうか? 極端な話、デタラメに配置された文章の配列からでも人間は「意味」を読み取ってしまえるわけであり、それは非生物学的なシステムによってもたらされるパターンとおなじだ。「全ての情報に意味がある」という前提で読まれた文章からは何らかの意味が勝手に見出され、それこそピンチョンが描くパラノイアそのものに他ならない。
 ピンチョンや例に挙げた舞城が実作でおこなっているのは、みずからの意思から生み出した「パラノイア(=文学的なメタファ)」と小説というシステムで不可避的に発生するパラノイアの融合だ。みずからの想像力を物語に起こし、語られるにつれて勝手に増殖する意味をさらにみずからの想像力に加えていく。その過程で挿話につぐ挿話、構造のメタ化が生じ、旧来的な文学システムを破壊する巨編となる──内在する想像力と外在する想像力の共生が、あらゆるジャンルを飛び越える「バッドでビッグな想像力」を立ち上げ、既存の文学へのラッダイトをけしかける。 

現実世界に「敗北」を喫するピンチョンの文学

 全体的に過去のピンチョン作品を踏襲したような設定で、かつ脱線も少なく話の筋がスッキリしていて読みやすい『ブリーディング・エッジ』だが、物語が終盤に差し掛かる頃、同時多発テロが発生する。その直後のニューヨークに生きる人びとの声がこのように書かれている。

ハイディは『ミームスペース・カートグラフィー』に掲載すべく、「異性愛規範(ヘテロノーマティブ)の希望の星は、同性愛嫌悪(ホモフォービア)の暗黒星を伴って」という題で論文を執筆中である。それによると、都会のゲイ・ユーモアの中心をなし、九〇年代を通してポピュラーだったアイロニーが、9・11の多くの犠牲者の道づれになって消えてしまった。アイロニーでは悲劇を救えなかったというのが、どういうわけかその理由であるという。「まるでアイロニーが9・11の発生に加担していたみたいな話なのよ」と、マキシーンに持論をかいつまんで説明する、「この国の内部に、敵と通じた連中がいて、彼らのクスクスした、しゃなりしゃなりした振る舞いでこの国が十分なマジメさを失ってしまった──「現実」を把握する力が弱まってしまった──つまり現実以外のことは(この国が既に陥ってしまっている妄想は別として)一切切り捨てなさいってことなの。これからは全てが字句通りにならないといけないって」
「そういえば、子供たちも学校で同じ目に遭っている──」チェン先生がいう、仮にクーゲルブリッツが町だったとしたら近所の口やかまし屋に当たる国語の教員がいて、この人が、これからはフィクションを読んでくる宿題は出しませんと宣言したのだ。ジギーはまだしも、オーティスは震え上がった。二人が『ラグラッツ』や『ロッコのモダンライフ』の再放送を見ているところにマキシーンがやってくると、子供たちは反射的に「チェン先生に言わないで」と叫ぶのだ。(p478-479)

「ローカル・ニュースに流れた映像、覚えているか? ちょうど最初のビルが崩れてきたとき、女の人が路上から店に駆け込んできて、背後でドアが閉まった途端に猛烈な黒い突風が襲ってきたろ。灰と粉塵の大津波が道を伝って、ものすごい力で窓の向こうを過ぎ去っていった。その瞬間だよ、マキシー、〝何もかもが変わった〟じゃない、〝何もかもが顕になった〟んだ。偉大な禅の悟りみたいなのとは違う、黒と死の土石流。私らが行き着いた姿を、マジに露呈するもの、私らがいつもそうだった姿をさ」(p484)

 ワールドトレードセンタービルの崩落後の世界では、アイロニーとフィクションが真実性を失い、何もかもが顕になった。パラノイアであったはずのものがパラノイアですらないただの現実になってしまう。作者の意思、文学というシステム──これらの融合物として提示されてきたピンチョンのパラノイアは、さらにその外部にある「現実」によって砕かれたのだ。これと時をほぼ同じくして、具現化したパラノイアたるディープアーチャーもフリーウェアとして公開される。『ブリーディング・エッジ』の特異性は、作品の途中で従来のピンチョンを支えていた想像力が現実世界に敗北し、木っ端微塵に打ち砕かれるところにある。フリー化したデープアーチャーには誰もがアクセスできるようになるばかりではなく、そのプログラムを勝手に書き換えることさえできようになっている。
 そこは世界の終わりかそれとも始まりか──老練の作家によるこの長編小説は、クライマックスを前にして更地になる。アイロニーを失い、フィクションの説得力が地に落ち、粉々になったパラノイアの残骸のなか、丸腰になったトマス・ピンチョンはそれでも文学の世界に立ち続ける。現実世界による文学の打ち壊しがラッダイトなのではなく、それさえも受容して世界を素手で殴りつけるのがピンチョンのラッダイトだ。テロリズムに奪われた想像力を取り戻すように、マキシーンはディープアーチャーのなかで死者を想い、離婚で一度は破綻した家族を復活させる。

終わりに──殺しても死なない「バッドでビッグな想像力」

 もちろんテロをはじめとするあらゆる厄災が起ころうとも、良い意味でも悪い意味でも人間の想像力が潰えることはない。9・11にはじまった二十一世紀は既にさまざまな危機を経験してきた。イスラム過激派組織による数々のテロがあり、ポピュリズムの台頭による分断が起こり、日本は東日本大震災を経験し、そして現在は新型コロナウイルス感染症によるパンデミックの渦中にある。
 このような「強い現実」は既存の思想・価値観を簡単に打ち砕く一方、それにはじまる想像力がその都度生まれてくるのだ。文学的なメタファ、陰謀論、ポスト・トゥルース、そしてパラノイア──けっきょくそれらは些細な呼び名のちがいであり、その構造に大きなちがいはない。『ブリーディング・エッジ』をあえて一言で評するならば、「想像力の死と復活を通して現実に殴り込みをかけた作品」だ。人間が存在する限り想像力は不滅であり、しかしそこに「想像力の善悪に区別はない」と但し書きがつく。終盤、マキシーンに銃口を向けられた悪の象徴的存在ゲイブリエル・アイスはこんなセリフを吐く。「私は不死身だ。私が死ぬというシナリオはない」
 ここで最後に悪ふざけとしてパラノイアをひとつ。
 先のゲイブリエル・アイスのセリフが「ピンチョン自身の肉声」で発せられたらどうだろう? これまでの「お決まり」の流れで書かれはじめた『ブリーディング・エッジ』という小説のなかで自身の文学を殺しておきながら、飄々と生き返ってみせた「バッドでビッグ」な作家トマス・ピンチョン。そんな彼がみずから不死身を宣言しようものなら、ぼくはこのようにいってやる。
「うるせぇジジイ。それで勝手に死にやがったら、俺がぶっ殺してやるからな」
(了)

▪︎参考文献
・Thomas Pynchon, “Is It O.K. to be a Luddite?, The NewYork Times, Oct. 28,1984
https://archive.nytimes.com/www.nytimes.com/books/97/05/18/reviews/pynchon-luddite.html
・宮本陽一郎、「機械とラッダイト的想像力〜産業革命からサイバーパンクSFまで」、電気学会全国大会特別公演、一九九四年
https://www.jstage.jst.go.jp/article/ieejjournal1994/114/9/114_9_577/_pdf
・廣野由美子、『小説読解入門 『ミドルマーチ』教養講座』、中公新書、二〇二一年
・三村昌泰編著、『現象数理学の冒険』、明治大学出版会、二〇一五年

頂いたご支援は、コラムや実作・翻訳の執筆のための書籍費や取材・打ち合わせなどの経費として使わせていただきます。