「小説家になろう」に投稿された小説2000作品のタイトルを分析してみた
Twitterで「#RTした人の小説を読みに行く」タグを利用した批評企画を細々とやっていると、国内有数の小説投稿サイト「小説家になろう」のユーザーからのコンタクトを多く受ける。WEB小説を片っ端から読んでいく試みをはじめてから、異世界転生をはじめとするいわゆる「なろう小説」には戸惑い続けてきた。ぼくも多くはないけれどライトノベル作品を読むことはあるし、アニメは比較的よく観ている方になるとおもうし、「オタク文化」もそれなりにわかるっちゃわかるほうだろうとはおもいつつも、やはり苦手意識が拭えない。というか、募集要項や過去の批評を読まずにコピペでリプを飛ばしてくるひとが溢れかえってくるとさすがにキレたくもなる。読ませてくださいとはいっているものの、彼や彼女らの数万字を読むのになんでこちらの140字をきちんと読んでもらえないのかとか考えだすと、やはり割に合わない気持ちがある。そこまでしてPVがなぜ欲しい? こういうマナーもクソもない行為をやってくるのはライトノベルの書き手〝だけ〟というのが一番の不思議である。いい加減にしろ。
話がそれた。ともあれ個人的な好みの問題は脇において、ぼくが感じる「なろう小説の独特さ」があるならば、そこには何らかの構造があってしかるべきだろう。
1つ事例をあげてみる。ぼくの元に寄せられたある作品では、「魔法使いなのにマッチョ」といった「AなのにB」というロジックが多用されていたのだけれど、この論法を駆動させるには大衆認知された3つ価値観が鍵になる。それは「本来Aとはこういうもの」、「本来Bとはこういうもの」、「AはBのはずがない」であり、それによって得られたギャップによってAはオリジナリティを得るに至る。しかし、この論法はあまりにもマジョリティの力学に頼りすぎているきらいがあり、さまざまな価値観の更新が起こりつつある過渡期といえる昨今をみると、いつまで「AなのにB」論法で笑えるかという不安が個人的にはある。
そんなことを言い出せば何も言えなくなってしまうじゃないか!といわれたらたしかにそうなのだけれど、ことばを噤んでしまう瞬間への対峙は「なろう小説」やライトノベルの枠組みを超えた「広義の小説」を書く人間にとって避けられないものではない気がしないでもない。時代の要請次第でぼくらは笑いかたを変えるだろうとおもう。
上記は特定の作品から得られたものを一般化した際に現れてきた「なろう小説の文法が持つ力学」かもしれないとぼくは考えている。ただ、そうやすやすと一般化できるものでもないし、あくまで可能性として個人的に想起されたものにすぎないとも理解している。小説の議論は精読なしに成り立たないのもあるけれど、その作品が属する空間でどう位置付けられるかを検討するにはまた違うアプローチも必要になる。
そこで今回は、「精読(close reading)」の対義語である「遠読(distant reading)」の練習として、「小説家になろう」に投稿された新着小説2000作品のタイトルの分析をおこなった。
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