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【 #ブンゲイファイトクラブ 1回戦ジャッジ審査】わたしがこのようなかたちで生まれてきたほんとうの理由

 ファイターで出るかそれともジャッジで出るか、ブンゲイファイトクラブの告知を見てまずその選択が脳裏を過ぎったが、なかなか実作の発表機会を得ないじぶんとして「おれは実作者なんだ」という自信を持ちたいがためにファイターとしての参戦を決めた。

大会経過・参加者プロフィール
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1回戦総評
1回戦採点一覧

 ブンゲイファイトクラブのシステムの特異さについての言及は他に譲るが、もともとインターネットがなければじぶんで創作などしなかっただろうことを振り返ると、このように一度に大勢の作品が掲載され、評されるという場は貴重だ。この世には評価の機会をえなかった作品、そもそも評価すら求めていないのに存在してしまった作品、作品とすら見なされない作品というのがたくさんある。
 ぼくもまたそのような作品を書き続けてきた人間のひとりだ。はじめて名前を見る作者の力作とじぶんの文章が同時に掲載されているのを見て、はじめて自作が文学賞の予選を通過したときの感慨が蘇った。そんな程度のよろこびなんてくだらない、という声もあるかとおもう。作品名とペンネームだけが無機質に並べられている紙面の背後には、「これを読んで推してくれたひと」が存在している。ぼく自身、究極的には自作の評価はいくらかの友人がこっそり「あれ、おもしろかったよ」といってくれるだけでいい、それがすべてであって欲しい、と常々いうのだが、しかしひとりの職業的な書き手であるとするならば、見知らぬだれかが見知らぬ世界に手を差し伸べてくれたのだという事実を決して蔑ろにすべきではない。
 今回、ぼくはAグループで金子玲介「アボカド」に敗北したのだが、個人的なことを言えば金子玲介という作家と知り合ったのはちょうど「見知らぬだれかが見知らぬ世界に手を差し伸べてくれた感慨」を知ったのと同時だ。かれもまたそうした時期にあったらしく、以後、今日に至るまで互いの創作を読み、評しあった仲だが、そんな友人とこのような場で戦うことになった偶然を誇りにおもう。そして招待ファイターゆいいつの1回戦敗退者となってはしまったが、かれや冬乃くじさん、鵜川龍史さん、そしてさらに他のブロックの28人の優れた書き手と自作を並べられたことをなによりもうれしくおもう。

 ジャッジの評価方法については1回戦原稿を脱稿してから常々考えていたが、究極的には作品に対して「かつてぼくを救ってくれた感慨を呼び起こしてくれるジャッジを行えるひと」にぼくの点数を託したいと考えた。
 しかし、実際に評を頂いてみると審査は難航した。評者はそれぞれの矜持をしっかりと持っており、だれかの評は常にだれかの世界に手を差し伸べている。それだけに点数をつけるのはひどく難儀するのだが、主観的な要素を含みつつも、独創的な読みと感じたものに関しては最低限の一般性を確保できたもののみ加点対象とした(とはいえ、拙作に対する評を判断材料にするわけにはいかない)。
 得点に関して、ジャッジを「ジャッジする」という意図から「5点1人、4点2人、3点2人、2点2人、1点1人」という枠を設けて、持ち点を最大限につかった相対評価とした。
 これは、真摯に32作を評価してくださった方々に対して、可能な限り悩み抜くことをじぶんに課したという動機による。低い評点となってしまったジャッジには申し訳ないが、決して「読み」そのものを否定しているわけではないということを明記しておきたい。真摯に作品と向き合ってくださったことに今一度感謝の意を伝えたい。

 あくまでぼく個人の基準にはなるが、評価にあたっての「一般性」の基準を以下に記しておきたい。

① 複数の文芸創作ジャンルに対する理解を示し、提示された作品世界のなかでの検討がなされているか
② ファイターに提示した評文のなかに各ブロックないし全体を相対化する切り口が提示されているか

 この2点が満たされたうえで、

「読み」の独創性の高さが認められ、そして大滝個人のフィロソフィと共有できるものがあるか

 を一番大きな論点として評価にのぞんだ。

 しかしここで問題なのが、評者らに与えられた文字制限である。
 上記を採点の基礎とするならば採点方法の明示が義務付けられてしまうため、QTVさんや帆釣木さん、道券さんのように「個人と作品の関わり」を重視したスタイルへの評点がどうしても低くならざるを得ない。そのことも踏まえると①②を重視することはできても絶対条件とすることはむずかしい。
 そしてなにより評価システムへの言及が多くなると、肝心の作品への言及が減ってしまう。その悩ましさのためか、数人のジャッジが外部で別に各作への言及をおこなう旨を宣言しているが、気持ちはよくわかる一方でこれを評価対象とすれば不公平が生まれてしまう。とりわけ笠井さんや橋本さんはファイターに送られた評のなかでは評価システムのみの言及にとどまっているため非常に扱いに難儀したが、テクストから垣間見るジャッジの意図をもとに審査を行った。
 評者個々人のフィロソフィについては明言されていなくても、採点結果や短評をもとに可能な限り汲み取る方向でジャッジした。しかしながら、やはり最終的には「このひとに今後の評価を託したい」という主観が大きく働いた結果となった。

 また、評価にあたってのそれぞれの評価基準が適切に運用できているかも念のためしらべてみた。ジャッジそれぞれが5段階の評価をどのように使用したかのヒストグラムをとったので、参考までに以下に示しておく。

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 作品の素直な読書による良し悪しを重視した序列化を行えばQTVさんのように二項分布のような概形となるだろう。一方で笠井さんのように完全にフラットな概形は自然科学的に「不自然」であり、これは評価システムの強度ゆえに生じた結果であると考えられる。これはどちらが良いとかそういう問題ではない。それぞれにそれぞれの「かたち」が存在していて、それは評者各々にフィロソフィの所在だといえる。個人的には持ち点の5点を最大限に活かしながら、その配点への説得力を持たせる評を期待した。

 以下、評価が高い順に採点の理由を示す(第1席に★をつけた)。

★笠井康平【5点】

 いちばんに推した。評文のなかで作品の具体的言及をまったく行っていないかれに「5点」を託した最大の理由は、ぼく自身が文芸創作に抱くフィロソフィがもっとも共鳴し、かつそこに前例をみない独創性を確信したからだ。
 そのフィロソフィとは「言語表現を自然科学としてみなす」というものであり、これはひとによれば極めて無機質な文芸への接し方に見えるかもしれないが、この採点の背後には自然科学がたたえた詩情は文学において「メタファを経由して」間接的にしか感知されていないという問題の所在がかんじられる。
 ぼくにとってこの問題は非常に大きく、その詩情をメタファに頼らないシステマティックな手法により直接見出そうとする姿勢の創造性は高い。これは「(AIによる自動評価的に)自然科学的に文芸作品を読む」「文芸作品の評価を絶対化するシステムの構築」ことではなく、「文芸作品のなかに宿った自然科学を発見する」試みだと読んだ。そうした価値観を発見してくれたよろこびは、まだだれにも知られていない、書き手にすら発見されていない文芸作品を世界ではじめて見つけ出したような、そんな感慨をおぼえる。
 ただ評価方法について問題点も残る。複数のモードが作品内に現れた際の処理、描写を偏らせることで作品の重心をずらす技法など、「無理・無駄」をつかった作品構築をおこなったものへの感度が鈍いように感じられた。むろん、この評価制度はまだ試運転の域を出ないことを自覚して運用されているのは評文から読み取れるが、それだけに今後はそのアップデートが論点となるだろう。

仲俣暁生【4点】

 もっともオーソドックスで本格的な評文だとかんじ、その安定感を信頼して点数を預けたいとおもった。仲俣さんの評から感じられるのは各作品が土壌とするカルチャーや方法論への理解であり、同時にその土壌を内破するような凶暴さへの期待におもえた。しかし、ぼくが凶暴さと形容した野心を達成するにいたったと仲俣さんが判断する敷居は高く、それは我々ファイターへの叱咤激励としてぼくは受け止めた。野心的な実作者がついおちいってしまう見栄えの目新しさへの警告、という牽制があるのかもしれない。
「来たコダック!」について4点と高く評価しながらも、「破壊的に見えるがむしろ構築的すぎて最後まで推しきれなかった」としたのはたいへん趣きがある。どんなかたちであれ「作品」としての存在が運命付けられた文芸作品は究極的には構造化を免れないがゆえに、そう言われてしまうと良くも悪くもなんにも言えなくなってしまう(反論ができない)ことに大滝としては疑問を持ったが、ぼくのこの感覚こそが野心的な実作者が陥りがちな価値観であることもまた自覚している。

元文芸誌編集長 ブルー【4点】

 おそらく評文の尺を「1ブロック1200字程度」と勘違いしたのだろう、全作の短評を掲載するかたちになった。減点対象にするか大きく迷ったが、しかしながらこの「勘違い」を採点の対象にするのは文芸的でないと判断し、今回は特に問題とはしないことにした。どう読み、どう評価したのかの身振りをぼくは対象としたい。
 ブルーさんを推したいとおもった理由は、「言語表現への懐疑」が徹底されている点にある。採点表を眺めると保守的な文芸趣向があるように見られ、大滝の文学観とも大きく異なってはいるが、その主張には説得力がある。安易に使われがちなことばや定型表現に対して「小説を解放する」という視点から言及しつつ、大田陵史さん「インフラストレーション」を高く評価しているところに、ブルーさんの言語表現に対するスタンスがよく表れているとおもった。
 また、ゆいいつ採点に「5点」を用いなかったジャッジでもある。どんな作品のために最高得点を温存しているのかとても興味深い。

橋本輝幸【3点】

 橋本さんは規定の尺をきちんと守り、その尺内だけですべての作品を平等に扱おうとした評文を書かれていると感じた。それゆえに各作品への具体的な言及が「できなかった」とぼくは読んだ。代わりに採点の基準を明示し、各ブロックに見られた主題の共通項を見出すことで相対化を図っていた。
 しかし、個性的な評が並んだため相対的に淡白な評となったのが悔やまれる。特に推したいもの・議論が必要と判断したものをピックアップして論じて欲しかった。2回戦以降では橋本さんのプライベートでオリジナルな「読み」が具体的に見られることを期待したい。

道券はな【3点】

 主題の強度を評価基準とした道券さんは、ぼくとは文芸作品に対するスタンスが大きく異なっているとかんじた。主題や意味はたしかに重要だとおもうが、しかしそれはいつも作者のなかに秘められているとは限らない。作者ですら知り得なかった問題、実作やその読み返しの過程ではじめて発見されるものがある。道券さんの採点傾向を見る限り、物語として主題のようなものが浮上する際にそれを「祈り」というかたちで受け止めることができている一方、技巧的な言語表現として発露したものに関しては拒んでいるように感じられた。蕪木Q平「来たコダック!」をぼくは切実さや祈りと呼びうるものを強く感じたのだが、道券さんがどう読んだのだろうかと気になった。そうした作品への言及があれば、道券さんが認識している世界の広さを示せたようにかんじた。

帆釣木 深雪【2点】

「ネット上に漂うことを決定づけられたテクスト」という観点をたいへんおもしろいとおもい、同時に推薦作としてあげられたもののうちいくつかはその意図がなんとなくわかる、そんな評文だった。しかし、やっぱりよくわからないというのが本音で散漫な印象が残った。評文の最初と最後にインターネット・テクストとの個人的な接点を暗示する文章がおかれているだけに、この論点への問題意識は高いと読める。だからこそ『ネット上に漂うことを決定づけられたテクスト」という〈流通〉』についての具体的な言及があるべきだったのではないか、とおもう。その問題への思考が、より多くの作品世界へ手を差し伸べる可能性だったとぼくはおもった。それだけに全体をより具体的かつ精緻に俯瞰する文章がほしかった。

樋口恭介【2点】

 最初にいっておくと、ほんとうは笠井さんに次ぐ2位であり「4点」の評価だった。持ち点を最大限に活かして設計された小説の強度を問う評価制度について、設定された項目で運用するなら平均的に良くできている作品の評価が高くなってしまいそうに思えたが、得点をみるとぜんぜんそうじゃない。そもそもの樋口さんの読みかたのクセが強いようにおもわれたが、このクセこそが樋口さんを「エンターテイメント性が豊かなジャッジ」にしている。
 しかし結果的にこの順位にきてしまったのは言うまでもなく(?)「Gブロック全員5点事件」による。心情的には、これはひとりの読者として感動さえあった。エンターテイナーとして非常に感心もするし、作品を絶対評価で採点していると起こり得ることなのはわかる。別に全員に5点をつけてはならないというルールはないが 、ジャッジとはあくまで相対化・序列化をおこなう役割であるとぼくは考えるので、(いちおう、勝者の投票は行っているものの)その機能が損なわれてしまうし、この採点を評価すると他のジャッジに申し訳ない気持ちがあり、今回は「イエローカード」という意味で、この位置まで下げさせてもらうことにした。低評価をつけておきながらだが、他のファイターによる評価に手に汗を握る。残って欲しい。2回戦以降も思い切りのよいジャッジを見せて欲しい。

QTV【1点】

「殺すな」という独特の評価基準について、名倉編「異セカイ系」を想起したが、評文からあまりにも評者のプライベートな感情が強すぎていているようにかんじ、それじたいの切実さは認めつつも、ジャッジという観点から考えると批評的な説得力が欠けていたと判断せざるをえない。ジャッジとしてこの視点を機能させるためには切実さゆえに周到な準備が必要だったとおもう。個別の作品評についても言語表現という観点の指摘が見られず、映像的・物語的観点からへの偏りも気になり、相対的にこの位置の評価となってしまった。
 低評価作品に対して短評で筋書き・設定の根本的な見直しを(見方次第では)一方的に突きつけている(と捉えられかねない)点において「他者の世界を引き受けたうえで、提示された作品の内部での検討ができているか」という大滝の評価基準とは全ジャッジのうち最も遠いところにあった。気持ちがわからないでもないのだが、作品と評者のあいだに立つものをていねいに読みとることを大切にしてほしかった。QTVさんがそれぞれの作品が「このかたちで生まれてきてしまったほんとうの理由」と対峙するのを見てみたい。

反省点

 今回、樋口さんの例を除いて道券さん・帆釣木さん・QTVには相対的に低い評価となってしまったことについて、これはあくまでもぼくの読みかたにまだ不完全な点があるという証拠に他ならない。
 この3名のジャッジはそれぞれ「祈り」・「インターネット」・「死の必然」といった独自の、そして「個人的な文芸作品との関わり」を重視した採点を行なっている。それは任意の文芸作品(笠井さんのことばを借りるなら「言語表現とすら見なされなかった作品」も含む)をじゅうぶんに読むためにもっともたいせつな着眼であり、一定のゲームルールのなかでいかにこうした声に耳を傾けるかは実作・批評の区別によらず、文芸というひとつの文化が切実とすべき重大な問題だろう。
 それ自体がぼくの今回の「審査基準」だったのだが、こうして採点を終えたいま、翻ってぼく自身に突きつけられている。各人の矜持をじゅうぶんに読み取れたか、考えるほどに自身の身の程をおもいしる次第だ。

謝辞

 32作品のジャッジに大きなコストをかけて悩み抜いてくださった8名のジャッジ、そして大会運営に携わる各位に改めて感謝の意を示します。戦線は離脱しますが、引き続きブンゲイファイトクラブの観戦をたのしみにしています。ありがとうございました。

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