アメリカ大統領選挙に関する私見
ほぼメモ帳からのコピペ。
太字や目次等の装飾を面倒だから省いた。
民主主義は万人の平等や平和を実現するものではなく、むしろ闘争の方法論であると考えている。
真の平和主義は言論における闘争すら否定し、原則的合議制などによってあくまでも和合を追求することでしか現れない。
しかし民主主義は言論闘争を肯定し、その勝者と敗者を規定する。かつ、敗者のそれ以上の言論や実力行使を封殺し、「敗北を自覚させる」ためのシステムである。
「勝てば官軍」や「数的優位性」といった勝者側の都合を通すための方法論というよりは、「とにかく闘争を終結させる」ことを念頭においたものだと考えた方が、個人的にはしっくりくる。
「やられたらやり返す」「諦めたらそこで試合終了」人間は、復讐の連鎖によって永遠に闘争を継続できる生き物である。
そしてそれは本来、往々にして主観同士の闘争、私闘である。子どもの喧嘩、意地の張り合い、紛うことなき根性論、「自分」が負けたと思うまでは負けていないのだ。
民主主義はその私闘の根本にある主観、それぞれの矜恃を客観に丸投げする。社会的正当性/正義を「参照」して当事者間で最後まで折衝するのではなく、どちらが「社会正義そのもの」なのかを持って勝敗を判定する。最も手っ取り早く、しかし粗雑なシステムである。
言論の自由はある。誰が何を言っても構わない。しかしそれらの主観は、直接相互に衝突/融合させ、その化学反応から正義を導こうとする本来の闘争には用いられない。「どれを『そのまま』客観的正義とするか」という判定のための選択肢でしかなく、民主主義が肯定する言論闘争とは、すなわちこの「社会が各言論を判定/比較する行為」に過ぎない。
結果的に、主体性は逆転する。本来の闘争、不毛な私闘を終わらせるために(あるいは仕方なく)拙速な民主主義を用いていたものが、「民主主義で解決できる言論闘争以外は許されない」となったのが、現在の民主主義社会である。
言ってしまえば、真の意味で多様性や他我の「存在」を認めることや、認めているからこそぶつけ合い、相互に変容しようとする本来の闘争が面倒くさくなったのだ、と僕には映る。
現在における多様性の容認とは、「民主主義の敗者として、大正義である俺ら勝者に迷惑かけないのならお情けでほっといたるわ、勝手に天に唾吐いてろ」という「無視」である。
換言すれば、民主主義における言論闘争に参加し自らの主観を提示することは、その時点で本来の闘争/私闘を放棄し、主観の客観化を試みることである。
トランプ大統領は、私闘を戦っている。
何より自分が大統領になりたい/続けたいから、あるいはアメリカを自分の力で(自分にとって)よりよくしたい、という動機は一貫しており、「民主主義のシステムに則って、4年に1度俎上に載せられる各言論の中の一つ」に甘んじている自覚はない。
4年前、アメリカ国民は提示された各言論の中から、1番「アメリカにとっての」正義に近いものを選んだに過ぎないのだが、トランプ本人は「自分にとっての」正義が、クリントン等「他候補にとっての」正義を直接打ち負かしたのだと錯誤している。
よって、彼の敗者やマイノリティに対する扱いは、上述した「民主主義社会における『勝者からの無視』という多様性の容認」ではない。彼自身の正義に沿わない「敵」として、彼はそれをどこまでも無視できない。自らの主観が無視できず、好意的に解釈を変えることもできない他我は、徹底的に敵対するしかないのだ。
それがトランプ個人の主観であると同時に、それを選んだアメリカそのものの意思/アメリカの正義/客観である、と言うしかないのが民主主義の限界である。
トランプ大統領はこの、選んだ主観をそのまま客観化するしかない民主主義の粗雑なシステムを最大限利用している。
民主主義によって主観は客観化されるが、それは選ばれた強力な個人によって客観が主観化される方弁にもなりうる。「勝てば官軍」というやりたい放題の免罪符。陳腐な言い方だが、民主主義の落とし穴である。
よく「トランプ大統領は民主主義を冒涜している」という言説を目にするが、「勝てば官軍」の方法論として解釈できてしまうほど欠陥的な民主主義の方に問題がある。
今また、そのトランプの主観を争点として民主主義の言論闘争が行われている。一言で言ってしまえば、「トランプ個人はアメリカにとって正義か悪か」というダイレクトな個人評価であり、「民主主義によるトランプ個人への復讐」という私闘的な意味合いが強いのは言うまでもない。要はトランプと同じ土俵に上がったのである。
4年前に選んどいて…というありきたりなことに繋がるのだが、何故それを潔く4年前にもできなかったのか、という率直な失笑が先立つ(まあクリントンだけは嫌だったから、というクリントンへの私闘だった有権者も結構いるようだが)。
民主主義の言論闘争が本来の単なる私闘に立ち戻った以上、トランプが負けを認めず無様な悪あがきを続けるのは当然である。再度書くが、私闘においては「自分」が負けたと思わない限り負けていないのである。
それを指して、また民主主義を冒涜云々などと批判するのは、もはや論点に修正不可能なほど齟齬を来たしていることに気がつくべきだ。
バイデン民主党はトランプとは違う、「勝てば官軍」の独裁などしない、敗者を含めて多様性を認めるはずだ……という向きには、民主主義は「平等」を追求するものだというその価値観が、既に幻想でありニーチェの言う「虚栄の道徳」なのだという僕の主観を書いておく。
民主主義は勝利を平等に与えるものではなく、個別の敗者を確定することで闘争を終わらせるシステムである。その上で、敗者に対して「平等だから気にしないで」などと幻想の平和主義を宣う。何度も書いたようにその方法は「上から目線の無視」という理解した振り、偽善である。
天に向けて唾吐く者は、決して唾を吐き返されることを望んでいるのではない。笑ってその唾を拭き取る偽善の自覚を促しているのだ。
彼らは、この誤って「自由な精神」と呼ばれる連中は、簡単に、かつ酷く言えば、水平化する者どもだ。――民主主義的趣味とその「近代的理念」の能弁で筆達者な奴隷なのだ。総じて孤独を知らず、自分自らの孤独をもたない人間、野暴で健気な若僧どもで、彼らに勇気も礼節もないとは言い切れないが、ただし全く不自由で、笑うしかないほど浅薄であって、何よりもこれまでの古い社会の諸形式のうちにおよそすべての人間的な惨めさと出来損いに対する原因を見ようとする根本性癖をもっている。そこで真理は幸いにも逆立ちすることになるのだ!彼らが全力を挙げて得ようと努力するのは、万人のための生活の保証。安全。快適・安心を与えるあの畜群の一般的な緑の牧場の幸福である。彼らが最も十分に歌い疲れた歌と教えは、「権利の平等」と「すべての苦悩する者に対する同感」との二つである。――そして、彼らは苦悩そのものを自分たちから除去されなければならない或るものと考える。(フリードリヒ・ニーチェ『善悪の彼岸』)
フォローとサポートの違い理解してなくて、調べてみてビビる